2006年04月24日

●嗚呼!寒風の中、七輪は燃えて

1978年1月3日(火)

目が覚めてみると20センチ以上の積雪である。昨夜遅くから雪になったらしい。
雪は嫌いではないが、今夜は、しぶんぎ座流星群の極大日である。夜までには晴れて欲しいと思っていたら、午後からみるみる青空が広がってきた。
夕方、早田氏、大滝氏、観測の打ち合わせに来訪。観測場所は上仲原公園とすでに決まっているが、地面は一面の雪である。いつもの流星観測のように、地べたに寝転がって行うわけにはいかない。シートを敷くことも検討したが、それでも冷たいことには変わりないだろうということで、早田氏らの発案により、各自、椅子を用意して観測に臨むこととなった。

夕食後仮眠を取り、24時に上仲原公園へ集合する。自転車で現地へ向かう道すがら見上げる夜空は快晴、東京都内とは思えないほどの豪華な星空だ。
凍結した路面に何度か肝を冷やしながらたどり着いた上仲原公園は、白銀の世界であった。軽いアップダウンが連続する公園内は、ほとんど足跡のついていない新雪に覆われて、まさしく八甲田山さながらである。
そんな公園に参集したメンバーは、清水、中山、大滝、早田、長谷川、田宮、中嶋、番園、そして私の9名。誰もが思いきり着ぶくれし、しかも思い思いの色、デザインの椅子を担いでいるのが何とも笑える。
「やっぱり椅子を持ってくるのは正解だったなあ」
「観測はやっぱり椅子ですよ」
しきりにうなずきあう早田、大滝両氏であったが、椅子に加えて早田氏は、もうひとつ大きな荷物を抱えている。
「これはねえ、うふふ」
早田氏が雪の上にどんと置いたもの。それは何と七輪であった。
「正月はやっぱこれですよ」
さらに荷を解くと、やかんに切り餅まで現れる。
「暖を取れるし餅も食えるし、締め切った部屋の中じゃないから一酸化炭素中毒の心配もないし、観測に七輪は欠かせないねえ」
理路整然とした早田氏の説明にうなずく皆であったが、
「餅なんか焼いてたら観測にならないぢゃないか。みんな、もっと真面目にやろうヨ」
突然、生真面目な声が早田氏の説明を遮った。
「中山さん!」
しょうちゃん帽をかぶった中山氏に視線が集中し・・・。やがて、
「そう、ですね。さすがは副会長だ。言うことが違う」
がっくりと早田氏が肩を落とした。
「わかればいいんダ。ボクたちはあくまで観測に来てるんだからネ。そこんとこ、忘れないようにしようネ」
観測家の本懐とも言うべき中山氏の弁である。
もしかしたらオレも餅の相伴に預かれるかもしれないなどとけしからぬことを夢想した自分を恥じながら、私も観測を開始する。
さすがは年間三大流星群のひとつだ。かなりの出現である。椅子を丸く配置しグループ計数観測を行うが、リクライニングなどするはずのないその辺にある椅子のため、じきに首が痛くなる。腰も痛くなってくる。
「椅子・・・あんまり良くないね」
小声で言う大滝氏に、
「何を言うか。雪の上に寝ることを考えたら天国だぞ」
早田氏がなおも強気で答えているのが聞こえてくる。
きりのいい時間を見計らってグループ計数観測から抜けた私は、写真を写し始める。空がいいので、トライXで10分程度の露出はかけられそうだ。
皆から離れた場所に設置したカメラのシャッターを切って戻ってみると、なんと番園氏が私の椅子をどっかりと占拠してどいてくれぬ。
「俺だけ椅子を持ってこなかったんだ。だからこの椅子は俺のものだ」
などと野太い声でのたまいつつ、てこでも動かない。
「全員、椅子持参、って電話で伝えたじゃねえかよ。それなのになんで持って来ねえんだよ、コラ」
そんな私の抗議に、もとより耳を貸すはずのない番園氏である。最後は、
「でへへい」
お得意の奇声を発して空とぼける。
いかにも理不尽であるが仕方ない。安住の地を追われた私は、雪の上に寝ころがり空を見上げる。しし座が南の空にかかり、北東の空には北斗七星が高く昇り始めている。
ああ、ケツが冷てえと思っていると、突然、椅子に深く凭れていた中山氏がむっくりと身を起こした。先ほどから一言も発しないまま空を見上げていた中山氏である。寝てるんじゃねえの、などという囁きも聞こえていたが、少なくとも今は眠そうではない。それが、観測に燃えているからなのか、ぐっすり眠って英気を養ったためなのかは、本人以外誰も知らない。
荷物をごそごそやっていた中山氏、やおら大きな弁当箱、というか保温ジャーを取り出した。
「腹が減っては観測にならないからネ」
いそいそとジャーの蓋を取る中山氏。
もわーっと盛大な湯気が立ち上った。
おお! 他のメンバー全員からどよめきがおこる。
愛母弁当。中山氏の必携品である。観測の際には必ずお母様が愛情こめて作ってくれた弁当を持参するのである。
「ああ、あったかくてうまいなア。全身にうまさが染みわたるなア」
独語しながら箸を使う中山氏に全員の視線が集中する。うまそうだ。真っ白いご飯に味噌汁までついている。
「ちょっとでいいから、それ、分けてくれないかな」
中嶋氏が遠慮がちに言う。
そんな中嶋氏を一瞥しただけで、中山氏はひたすら箸を使う。
「中山さん。すごーく美味しそうですね、それ」
「ああ、おいしいヨ」
よだれを垂らさんばかりの早田氏のコメントに、中山氏のコメントはいかにも素っ気ない。
「あー、おいしかった。さて、観測、観測」
衆人環視の中、素早く愛母弁当を腹中に納めた中山氏、ふたたび椅子に深く腰かける。もちろん空など見上げていない。幸福そうに閉じられた瞼が、彼の満足度を物語っている。
「くそ!」
いつもジェントルな早田氏がいまいましげな舌打ちをした。
「こうなったらこっちもやるぞ」
言うなり、七輪に網を乗せる。
「餅か!」
「おうよ。いつも中山さんだけが愛母弁当を喰ってやがってよ。いつか見返してやろうと思ってたんだ。で、こいつを(七輪と餅を指さす)持ってきたってわけよ。がはは」
ああ、早田氏の人格が変わってしまっている。ジェントルで学者然としたいつもの早田氏はどこにもいない。それにしても、他人の弁当を恨むのはいささか筋違いのような気もするが・・・。
復讐の鬼と化した早田氏に恐れおののきつつ、爆睡している中山氏を除いた全員が、七輪の上に並べられた餅を見つめている。もう誰も星など見ていない。皆の心の中にある言葉はただひとつ、「食欲」である。
やがて、餅が焼ける美味そうな匂いがしてきた。ごくり。誰かが唾を飲みこむ音がする。
「よーし。焼けたぞ」
ぷっくりと膨らんだ餅を、早田氏が箸でつかもうとしたそのとき。
「お、餅かア。道理でいい匂いがすると思ったヨ」
手がさっと伸びた。
「ああ!」
複数の悲痛な声が雪原に響く。
一瞬の出来事であった。こんなに熱い餅をなぜそれほど素早く喰えるのかといぶかしむ間もなく、網に乗せたすべての餅がまたたくまになくなった。
「弁当も美味いけど餅も美味いなア」
「中山さん! 何ということを!」
泣き声に近い早田氏の声。
「こいつ、寝てたわけじゃねえのか」
番園氏が低くうめいた。
「なんちゅうーか、化け物じみたヤツだなあ」
清水氏の声は、すでに怒りも呆れも超越し、目の前に神を見るような響きさえ漂う。
「い、いや、みんな。ま、まだ餅はある。焼くぞ。どんどん焼くぞ」
気を取り直した早田氏が、ふたたび餅を網に並べる。身も凍る寒気の中に、香ばしい匂いが立ち上り始める。
「もうすぐだ。もうすぐ喰えるぞ。みんな、もう少し待つんだ」
血走った目で餅を見つめながら早田氏が呟いた。
並んだ餅がいかにも美味そうにぷくんと膨れ、よーし、頃合だな。そう思ったとき。
「あーっ!」
「誰かこいつを押さえつけとけ!」
「喰ったあ!」
悲鳴と怒号が雪原を渡った。
中山氏。一瞬の早業であった。たちまち餅を食い尽くす。
「アア、美味かった。まだ餅、あるんだろ。ボクが火の番をしていてあげるから、どんどん焼いていいヨ。みんなは観測してていいからサ」
午前3時。全員の気力と体力が一瞬のうちに消失した瞬間であった。
流星は相変わらず頻々と出現する。が、空腹と虚無感に打ちのめされた我々は、一応は真面目に流星を数えはしているものの、凍死しそうな寒さも手伝い、ダラダラ感98%である。中山氏はと見れば、さすがに満腹したらしく、軽い寝息を立てている。
空腹と空しさのうちに夜明けが近づいた。次第に青さを増してくる空に、暗い星から吸いこまれるように消えていく。
「椅子でソリができるんじゃないかな」
あまりの寒さと空腹で誰もが雪の上に力なくうずくまる中、不意に大滝氏が呟いた。あたりを覆う沈滞感とはうらはらの軽い身のこなしで立ち上がると、自分のパイプ椅子を雪の斜面に据える。
「危ないよ。おい」
皆の声に軽く手を振ると、ごくさりげなく椅子に座り、次の瞬間にはそのまま斜面を滑り降りていた。後に残る雪けむり。パイプ椅子のシュプール。
「おもしろいよ。みんなもやってみたら」
寒気と飢餓で誰もがハイになっていたのだろう。夜明けまで「椅子ソリ」に全員が熱中、中には椅子の上に立ち上がり「椅子スキー」を試みる者まで輩出する。
ひとしきり椅子ソリ、椅子スキーに燃え、体が暖まった頃。
「すごいよ。見ろよ」
長谷川氏が西の地平線を指さし、ぽつりと呟いた。そちらを見やった全員が感嘆の声を上げる。
西の地平線に並ぶのは奥多摩から丹沢の連山。真っ白に雪化粧した山々を、朝日が鮮やかな薄紅に染め上げている。
一面の雪景色の中に立ちすくみ、誰もが無言で荘厳ともいえる光景を見つめる。
「餅は喰えなかったけど良かったな」
凍てついた風の中、誰に言うともなく呟いた番園氏の声に、全員が遠い目をしてうなずいた。

2006年04月26日

●星光雨読の田舎暮らし10年記

住み慣れた東京を離れ、岐阜県の山村に移住してから10年が過ぎた。月並みな言いかたではあるが、長かったようでもあり、短かったようでもある10年間であった。
移住にあたっては、それなりの経緯や決意があったものの、さまざまな機会に書いたり話したりしてきたので、ここでは触れず、「天文」という分野に絞って、田舎暮らしの10年間を振り返ってみたい。

1.田舎の星は本当に美しいか
そもそも私が田舎暮らしを決意したのは、自然に囲まれた暮らしがしてみたかったことはもちろんだが、東京では失われてしまった満天の星空を、夜毎仰いで暮らしてゆきたいと思ったことが直接の動機だった。移住して就いた仕事が、プラネタリウム解説と天文台のインストラクターだったために、天文の仕事がしたかったのだろうと思われる方が多いが、それはどちらかといえば余禄であり、職種にそれほどのこだわりがあったわけではない。
いずれにしても、結果として、「星でメシを食う」仕事に就き、仕事上からも長い間の憧れであった星空を毎夜見上げる生活が実現したわけであるが、そうして見上げる田舎の星空は、はたして期待にたがない美しいものであっただろうかと考えると、一抹の疑問を感じざるを得ないという気がしてしまう。
私が移住してきた当初、見上げる星空は、たしかに掛け値なく美しいものであった。が、それから年を経るごとに村内外の明かりは確実に増加し、特に、日本最大級の徳山ダム建設が本格化したことにより、急激に増加した光害によって、以前は足元さえおぼつかなかった天文台周辺は、今では新聞が読めるほど明るくなってしまっている。
地球温暖化とエネルギーの枯渇が叫ばれているにもかかわらず、「明るいことはいいことだ」「夜を明るくすることが地域おこしにつながる」といった短絡的な発想が全国の農山村に蔓延している現状はなかなか変わらない。
今でも肉眼で6等星が確実に見え、よほど透明度が悪い晩以外、天の川もきれいに見える村ではあるが、星空の美しい場所ほど、光害に敏感にならざるを得ないこともまた事実である。田舎に移住してからも、光害防止に奔走しなければならない現実を、もっと多くの天文ファンの皆さんに知って欲しいと思うのである。

2.観測量は増えたか
強烈な光害のために自宅での観測ができなかった東京在住中は、奥多摩や山梨県に建設した観測所への遠征を余儀なくされ、月に数回の観測量を確保するのが精一杯であった。
それでは、田舎へ移住して観測量が飛躍的に増大したかと言われれば、意外なことにさほどでもない。毎晩、自宅で観測できるのだから、観測量は増えなければいけないはずなのだが、平均すれば、月に5~6回の観測ができれば良い方なのである。
その主な要因は天候だ。同じ田舎でも、太平洋側の平野部であればこんなことはないだろうが、私の住んでいるような日本海気候の山間部は、晴天率が良いとは決していえない。12月から3月までは毎日雪が降り続くし、夏場でも山の天気はモヤが出やすく変わりやすい。一晩中起きていれば晴れ間を見て観測もできようが、朝から仕事のある身ではそうもいかない。また、年齢を重ねるにつれ、さまざまな夜の付き合いも増えてくる。
それでも、昨年は、流星観測で年間30夜を5年間達成して表彰していただくなど、東京在住中に比べれば観測量は多くなった。若い頃のような無茶はなかなかできないので、体力と相談しながら、今後も観測量の維持に留意したいと考えている。

3.自宅で観測は可能か
前項でも書いたとおり、田舎、特に山間部の天候はあまり良くない。また、私の住んでいる村は、周囲を1,000メートル級の山々に囲まれた谷あいに位置しているため、自宅からは低空の視界を確保することが不可能だ。
そのため、せっかく自宅から天の川の見える環境に住んでいながら、天候や観測対象によって、遠征観測を今でも余儀なくされている。冬型の気圧配置の時など、わざわざ空の明るい平野部まで車を走らせることも多く、大きな矛盾を感じながらの観測となる。また、冬場は、時に1メートルを越える積雪に見舞われることもあり、たとえ晴れていても機材を設置する場所がないために、やはり平野部まで下っての観測となる。
とはいえ、大抵の場合はさほど数kmからせいぜい20km程度の移動距離であり、渋滞どころか信号も数えるほどしかないガラ空きの道を、数分から20分程度走るだけで観測地へ到着できるのは田舎の大きなメリットだ。

4.星仲間はいるか
田舎暮らしをしながらの星見というと、山にこもって孤独に観測に取り組んでいる印象を受けるかもしれないが、ありがたいことに星仲間は大勢いる。
岐阜県というところは、なぜか昔から天文が盛んな県であり、公開天文施設で仕事をしていたこともあって、移住してすぐにたくさんの仲間と知り合うことができた。もちろん、そうした仲間が住んでいるのは、岐阜市や大垣市、あるいは名古屋といった都市であるが、ほとんどどこでも渋滞なしで行けるために、50km圏であれば1時間以内で移動することができることから、頻繁に集まっては、さまざまな情報を交換したり、一緒に星を見たりして楽しんでいる。

5.得られたもの、失ったもの
星を見るために田舎へ移住したからといって、何か成果をあげなければいけないということはないのだが、自己満足でもいいから、東京在住中とは違う何かを得たいというのは人情であろう。
田舎へ移住した10年間で得られたものは、まずそれなりの観測上の成果である。それなり、と書いたとおり、さほどのものではない。これが彗星でも発見していれば胸を張って威張れるところだが、地道な観測で得られた小さな成果や評価なので個々の事例は挙げない。
公開天文施設に勤務して広がった知見や人とのつながりも得られたもののひとつだろう。純粋なアマチュアとして東京に住んでいたなら、決して得られなかった経験をたくさん積むことができたことは、天文活動、ひいては人生をいきいきと楽しいものにしてくれた。
もちろん、失ったものもたくさんある。HASの活動になかなか参加できなくなったことは、そのうちでも最大のものである。いつも言っているように、HASを立ち上げ、発展させたことは、私の原点のひとつだ。組織としてのHASはもちろんだが、会を運営するなかで巡り会ったたくさんの個性ある友人たちとのつながりこそ、HASが私に与えてくれたいちばんの宝物なのである。もっとみんなと会いたい、話がしたい、いつもそう思うが、東京と岐阜の距離は遠い。
その多くが東京で開催されるさまざまな天文関係の会議や会合に参加する機会が極端に減ったのも失ったもののひとつである。距離的な隔絶ももちろんだが、土日開催がほとんどのそうした会合に参加することは、土日が勤務日である公開天文施設職員としてほぼ不可能なことであった。

どんなことでも、表と裏があり、メリットとデメリットがあるものである。あのまま東京に住んでいたなら、あるいは今とは異なった人生を歩んでいたかもしれないし、その方が良かったのかもしれないとも、時々は思う。
それでも、たった一度の人生である。普通の生き方ではなく、冒険やまわり道をしてみたい。たとえそれが惨めな失敗に終わろうと、何もしなかったよりはよほどいい。
長々と色々なことを書いてきたが、私自身は、けっこう過ぎた10年を楽しんできたつもりでいる。
最近は、休日でもあまり町に出ることもなくなった。今日も、午前中は、娘と猫とうさぎといっしょに雪で真っ白な村内を散歩し、今はちらつく雪を眺めながらこうして原稿を書いている。冬型も緩むとのことなので、そうすれば星空にも親しめるだろう。
晴れた晩は星を見上げ、雨の晩は読書と創作に親しみ、思索の時を過ごす。これからの10年は、そんな田舎暮らしがしたいと思う。


田舎暮らし最新情報!(ページが余ったのでおまけ)

・永らく藤橋村に住んできた松本家ですが、最近、カミさんが不動産情報を物色している気配で、どうやら新居への移転を計画している様子です。
それほど遠くに移るつもりはないようですが、どうなることやら。
・一昨年、隣の坂内村から滋賀県へ抜けるトンネルが開通し、藤橋村は一気に海に近くなりました。敦賀の海まで1時間半で行けるので、夏になると週末ごとに海へ行っています。日本海はきれいだよ。湘南や伊豆なんて海じゃない!
・かつては超金持ちだった藤橋村ですが、ここ数年の放漫財政が祟り、今では破綻寸前の財政状況。職員の給料は減らされ、庁舎の照明や冷暖房までケチっています。でも、これでいいのです。今まで日本中が浮かれすぎていたのです。
・後日、詳細な報告をしますが、こうした状況を利用して私は、村内の街灯を次々に消灯することに成功しつつあります。村執行部への私の殺し文句「街灯を半分に減らせば、電気代が1,000万円節約できるぜ」
・公共交通の廃止が相次ぐ田舎ですが、先ごろ、岐阜と大野町を結ぶ名鉄揖斐線及び岐阜市内線の廃止が地元に打診されました。すでに揖斐川町~大野町間は廃止されており、廃止されれば路面電車タイプの名鉄電車は全廃されることになります。旅情派の寺坂氏、廃止前に来たれ!

(東大和天文同好会会誌「ほしぞら」2003年3月号掲載)

2006年04月28日

●ようやく春がやってきました

sakuracastle1.jpg
例年になく寒い日が続いていた藤橋城周辺にも、4月20日すぎから桜が咲き始めました。昨日の時点ではそろそろ散り始めというところですが、いつもの年ならば4月の第一週には満開になりますので、半月ほども遅いことになります。 この冬は非常に雪が多く、昨年12月には藤橋城周辺で2メートル以上も積雪があり、毎日が雪との闘いでした。 タラの芽やわらびも芽吹き始め、藤橋の山もようやく春爛漫というところです。






2006年04月30日

●心の星空をおいかけて

ものごころついたころから、星を見ることが大好きだった。生まれも育ちも東京の私にとって、汚れた大気と強烈な街の明かりで星がよく見えない分、かえって憧れを誘われたのかもしれない。だから子供のころの「読書」といえば、天文学の解説書を読みあさることであり、その意味では学生が参考書を読むように、実用を目的に本をひもとく子供だった。
そんなある日、天文雑誌をめくっていると、一冊の本の紹介が目にとまった。「池谷・関彗星」の発見者として有名な彗星捜索家の関勉氏が、積年の夢だった新彗星を発見するまでの過程をつづった彗星発見記、「未知の星を求めて」である。
近所の書店に注文してから一ヶ月以上かかって入手したそれは、ペーパーバックの案外安っぽい本であったが、パラパラと読み進むうちに、私はぐいぐいと本の世界に引き込まれてしまった。戦前生まれの関氏の文体は、小学生が読むには難解な部分も多かったが、ドキュメンタリータッチで書かれたやや古風な文章が、超人的な努力の結果として多くの彗星を発見してきた圧倒的な事実と迫力に裏打ちされて、それまで単なる天文解説書しか読んだことのなかった私を虜にしてしまったのだった。
吐く息も凍る真冬の明け方、新しい星を求めて、やはり凍てついた望遠鏡にすがるように黎明の星空を探索する。当初は彗星発見という華やかな成果のみをひたすらに追いかけていた関氏が、10年、20年とただひとつの彗星すら発見できない無為の日々を見送るうちに、彗星発見という結果ではなく、夢を実現するために何もかもなげうち、ひたすらに憧れに向って全力投球するひたむきさこそが貴いということに気づいてゆく。そしてある秋の黎明、無欲の観測のうちに始めての発見がもたらされる。
それから時は流れ、ふとしたきっかけから私は、住み慣れた東京を離れ、ここ岐阜県の山奥にあるプラネタリウムと天文台の職員として勤務することになった。自然に囲まれた暮らしに憧れていたことももちろんだが、関氏の本を読んで以来温め続けてきた彗星発見の夢を、夜ごと満天の星空の広がるこの地で実現したかったことが、家族を連れて人口わずか450人の山村への移住を決意させた最大の理由である。
子供の頃に出会った一冊の本が、私を山紫水明の岐阜の地へと導いてくれたことに感謝を覚えつつ、今でもくじけそうになった時など、本棚からボロボロになったその本を取り出してページを繰る。そのたび、懐かしい紙とインクのにおいが、夢中で活字を追いかけたあのころのひたむきな憧れを鮮やかに呼び戻し、故郷を遠く離れたこの地で、ともすれば弱気になりがちな心を強く奮い立たせてくれる。そして、憧れ続けた星空を見続けてゆく勇気と力を、私に取り戻してくれるのだ。

(平成12年度岐阜県読書感想文コンクール優秀賞)