2008年03月02日

●娘の受賞論文

 高校1年生の娘が書いた論文が、学内の論文コンクールで優秀賞を受賞しました。
 親の欲目を差し引いても、しっかりした良い文章だと思いますので、ここにupします。


「動物」としての「人類」として 

 私の家では、うさぎを1羽と猫を8匹飼っている。うさぎは小学校で増えすぎたものを引きとってきたのだが、猫たちはいずれも放っておけば今頃は生きていなかったであろう野良猫ばかりである。

 私が小学校を卒業するまで住んでいた村では、無責任に餌だけを与え続ける住民のせいで野良猫たちが見る間に増えていった。その結果、住民に迷惑がかかるということで、村中の至る所に猫獲り用の罠が設置された。なんと愚かで罪深いことだろう。増やすだけ増やし、迷惑だからといって殺す。彼らのせいで、どれだけの罪なき命が殺されるために生まれてきたのだろう。役場に勤めていた父によれば、まだ目も開いていない子猫までもが保健所行きになったという。

 一年間でどれだけの犬猫が保健所に送られるか、ご存知であろうか。
 63万頭である。しかもそのほとんどが里親に引き取られることなく毒殺される。つまり、今、私の家で暮らす猫たちは、あのままあの村に置き去りにしていたら、今、生きている可能性はほとんどなかったのである。

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 中学生のとき、総合学習の授業で大野町の保健所を訪ねたことがある。そのときも一匹の野良犬が檻に捕らわれていた。保健所の人の話を聞いて、私は衝撃を受けた。町の保健所には設備が備わっていないのでしばらく置いてから大きな施設に移され、そこで殺処分が行われる。しかし町の保健所から処分場に送られるまでに、たったの三日しかないという。もちろん、そんな短期間で里親が見つかるわけもなく・・・おそらくあの犬も助かりはしなかったのだと思う。

 日本という国は先進国と呼ばれるが、動物愛護という視点から見ればまだまだ発展途上国だと思う。
 2005年に動物愛護法が成立する以前は、一部の悪徳ペット業者がひどい動物虐待を行っていたらしい。たとえば、子犬や子猫が育ちすぎたり下痢をすると売れないために餌や水をやらない。病気で助からない犬猫を安楽死させる薬代を惜しんで首を折って殺すなど・・・。さらに売れ残った子犬や子猫をミキサーにかけて、ほかの犬猫の餌にするなどということをしていたようだ。
 現在は法律の改正でペット業者に行政が業務停止命令を出せるようになったり、虐待の罰金上限の引き上げなどによりそこまでひどいものは減ったようだが、完全になくなったとは言い切れない。

 さらに、日本ではペットはペットショップで売っているのが普通だが、欧米の動物愛護先進国ではペットは売らない。ペットショップはあっても、そこではペット用品を売ったりトリマーの仕事が主で、ペットは子犬や子猫が生まれた家からもらうのである。ペット自体を売らなくても、それだけで十分、利益は出せるようだ。

 これらのことからわかるように、日本はまずペットとしての動物に対する考え方を改めなければならないと思う。
「モノ」として扱うのではなく、たとえ子犬や子猫でも生き物として扱うべきだ。私たちの人権が憲法で保障されているように、犬や猫、その他の動物たちにも幸せに生きる権利があるはずだ。

 ペットだけではない。さまざまな実験に使われる小動物、不必要な狩猟により殺される野生動物たち。彼らはいずれも人間の勝手な理由で殺される。人間はいつでも自分勝手だ。小学校やら中学校であれほど「周りの人のことを考えて行動しなさい」と教えられながら、温暖化、自然破壊、それによる生態系の崩壊・・・私たちは常に自分の目先のことしか考えてこなかった。そして、今、そのせいでまさに破滅の危機へと私たちは疾走している。罪なき生き物たちを道連れにして。

 人間は優れた生き物だと思う。しかし、高い知能を持ったからといって生物の代表になったわけではない。人も動物も虫も木も草も、例外なく平等である。人も動物も木も草も、みな同じ高さに立っている。人間の知能をもってすれば、その程度を理解するなどたやすいはずである。それひとつを理解するだけで、動物虐待のみならず様々な環境問題を解決することすら可能かもしれない。今の私たちに必要なのは、「人間」としてではなく「動物」として自らを振り返ることではないだろうか。

 小学校まで育ったあの村では、また野良猫が増え始めているらしい。そしてまた罪のない命が奪われていくのだろう。
 私の拙い文章でも少しでも心を動かしてくれる人がいれば幸いである。たとえ一人でも変わることが、未来を変える力になるのだから。
・・・地球(私たち)の明るい未来を、そして人類(私たち)のせいで命を奪われた動物たちの冥福を祈る。

写真:我が家のうさぎ「アルネ君」と子猫のころの「くしちゃん」

2008年03月03日

●娘と夜の散歩

久しぶりに暖かな晩だったので、夕食を終えてから娘と夜の散歩に行きました。
折からの黄砂で、夜空は東京の空のように霞んでいます。
冬の星座が西に傾き、北東には北斗七星が高く昇り始めていました。
鑑賞するには、いささか星数が少ない貧弱な夜空ですが、かえっていかにも春の夜空という感じで、大気の湿り気を感じながら畑の中の道を歩くのは楽しいものです。
娘が中学時代に通学で通った道らしく、道に沿った用水路に友達が自転車ごと落ちていた話などに笑い転げつつ、霞んだ星空を見上げながらの散歩は心なごむひとときでした。

藤橋在住中も、よく娘と夜の散歩に行きました。
懐かしく思い出すのは、真冬、雪が降りしきる中の散歩です。
長靴の膝まで埋まりそうなほど積もった夜道に、紙ふぶきのような雪片が降り積もり、歩いている間にも積雪が増えていきます。
夜空に吸い込まれそうなほど降りしきる雪。そして雪の夜独特の底ごもった静寂。
何が楽しいかと言われればなんとも答えようがないのですが、とにかく雪が降るたびに娘と散歩に出かけていました。
「また雪の夜の散歩がしたいなあ」
高校生の娘は、今でもときどきそう言います。

2008年03月05日

●夕焼け

3月というのに雪の日が多いのですが、先日、珍しくきれいな夕焼けが見えていました。

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子供のころから夕焼けを見るのが好きで、運転中など、思わず車を停めて見とれてしまいます。
遠くに見える山は雪に覆われていますが、私の職場である揖斐川町藤橋はその方角です。
毎日、25キロの道のりを走って雪国へ向かいます。
今日、天文台周辺の積雪は屋根から落ちた雪が溜まっている場所で約1メートル。
まだまだ春は遠いようです。

2008年03月06日

●論説「一面のみをとらえた学力低下論議」

 子供の学力低下をめぐる論議が盛んである。学力テストの強化、土曜授業の復活、反復計算の徹底などの主張にはいずれもそれなりの根拠があり、学力の向上のためには、どれも重要であることは間違いない。ただ一方、これらの主張は教育の一面のみをとらえているようにも思われる。
 人が生きてゆくのに必要なのは「知識」と「知恵」である。知識は長時間の繰り返しや暗記によって脳に刻みこまれる性格のものだ。授業時間延長や反復計算の意義はここにあり、最近論議される学力とは、こちらを指すことが多いように思われる。
 対して、知識の上にさまざまな経験や人との交わりによって身についてゆくものが知恵だ。知識が基礎であるならば知恵は応用であり、最終的に教育が目指すところは、不安定化する世界を生き抜いてゆく力の源になる知恵を、いかにして子供たちに獲得させるかという点にある。
 学力の向上は大切だ。がそれは、テストでいい点を取るためではなく、国際間の競争のためでもない。限りある資源と環境しか持たないこの小さな惑星の、唯一、知恵ある生物として、不安と混沌の現在を希望に満ちた未来へと切り開いてゆくためにこそ、必要とされるものなのだ。
 その意味で、現在の学力低下に関する論議は、的はずれとは言わないまでも、本質を見失っているのではないかと思われる。

2008年03月07日

●土星に見惚れた観望会

今日は、大野町第2公民館主催の星見会でした。
毎年、講師として呼ばれている観望会のひとつです。
この冬は雪の日が多いため天候が心配でしたが、夕方から晴れてきて、終了まで快晴の星空の下でたくさんの天体を見ることができました。
用意した望遠鏡は、20センチ反射が2台と15センチ屈折、15センチ双眼鏡がそれぞれ1台の計4台です。

この時期のメインディッシュは、やはり土星。
だいぶ環の開き具合が狭くなってきて、シーイングが悪いと串刺しの団子みたいに見えてしまうこともあるのですが、今日は冬場にしては大気が落ち着いていて、とても綺麗な土星を見ることができました。
参加者からは歓声とともに「写真が貼ってあるみたい!」という感想が漏れていました。

あとはオリオン大星雲、プレアデス星団、火星、シリウスなど。
これらの中ではシリウスが好評でした。
若いお母さん方に言わせれば「ダイヤモンドみたい!」とのこと。

自前の望遠鏡を持参されて調整をしてほしいという方もあって、ちょこっと調整して土星を導入してあげたところ、「こんな小さな望遠鏡でも環が見えるんだ」と感激されていました。

参加者数は60名ほどだったでしょうか。
大変に寒い晩でしたが、皆さん、熱心に最後まで星空を見上げていました。

来週の金曜日は、揖斐川町内で同じく出張観望会を行います。
晴れてくれればいいのですが・・・。

2008年03月09日

●随筆「秩父地学旅(前編)」

 秩父へ行ってきた。
 父の四十九日法要で東京へ出てきたのだが、そのついでに前々から行きたかったいくつかの場所を訪ねたのだ。
 春爛漫を思わせる陽気と晴天である。西武線の車内は居眠りしたくなるほど暖かい。飯能から乗り換えた秩父線の電車はボックスシートで、小旅行ではあるが旅気分が盛り上がる。
 西武秩父から連絡通路を歩いて秩父鉄道へ。
 秩父鉄道は東京近郊の鉄道にしてはローカル色の強い路線で、1時間に2本程度しか列車が来ないのだが、運良く5分程度の待ち時間で下りの三峰口行きがやってきた。
 閑散、とまではいかないもののほどよく空いた車内は、日ざしが差しこんで、先ほどの西武線と同じく駘蕩とした空気が漂う。地元のおばさんが、ロングシートに長々と寝そべっている。
 二駅目が最初の目的地である橋立鍾乳洞のある浦山口駅。山間の駅の改札を出ると、五分咲きの梅が馥郁たる香りを漂わせている。古びた駅舎の前にたたずんで日ざしを浴びていると、何だか桃源郷にいるようだ。
 橋立鍾乳洞までは山道を10分弱。このところ、以前に交通事故で痛めた右足が痛むため、たいしたことのない勾配がやや辛い。
 溶食された石灰岩の岩肌を横目になおしばらく歩くと、秩父札所のひとつであるお堂にたどり着いた。
 お堂の背後に、天を突くような威容で石灰岩の大岸壁が聳え立っている。まずお参りを済ませてから鍾乳洞を探勝するのがスジなのだろうが、私は迷わず鍾乳洞を目指す。
 鍾乳洞見物は以前からの私の趣味である。学芸員資格を取得した際の専門が地学と生物学なので、鍾乳洞や断層、地質調査は趣味、というよりは仕事に近いかもしれない。
 いずれにしても好きなことなので、全国あちこちの鍾乳洞や地形を見て歩く。東京周辺の鍾乳洞は大抵、歩いたが、ここ、橋立鍾乳洞だけは機会がなかったために、今回、思い立って訪れた次第なのである。

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 鍾乳洞内部はごく狭い。観光洞だから照明も完備され階段や手すりも整備されてはいるのだが、基本的に竪穴構造の洞内は狭い上に腰を屈めなければ歩けない天井の高さだ。頭をぶつける人も多いだろうし、これだけ狭いと体格の良い人はつっかえることはないまでも、相当に難渋するだろうと思われる。
 鍾乳石やフロースストーン、カーテンといった2次生成物はそこそこ見られるものの、水脈が変わったためか、鍾乳洞自体の成長はすでに止まってしまっている。生成途上の鍾乳洞でよく見られる水流や滝、ぽつぽつ落ちる水滴やカーテンの表面をぬらりと濡らす水などはまったく見られず、全体に打ちっぱなしのコンクリートのような乾いた粉っぽい印象だ。
 ゆっくり回っても20分ほどだったので、もう一度入洞する。竪穴構造なので、階段、というよりハシゴが数箇所に設備されている。足の痛む身としてはしんどい構造である。
 それでも満足して浦山口駅へ戻る。腹が減ったので、近くのコンビニでおにぎりとパンを購う。
 ふたたび秩父鉄道の人となり、20分ほど電車に揺られて、上長瀞駅で下車。次の目的地は、最近、リニューアルされた「埼玉県立自然の博物館」である。

(写真:橋立鍾乳洞内部。ケータイしか持っていなかったのでしょぼくてすみません・・・)

2008年03月11日

●随筆「秩父地学旅」(後編)

 駅から徒歩10分弱。茶色い博物館の外観が見えてくると、甘酸っぱい懐かしさが心に満ちた。
 この博物館こそが、私が学芸員を志すきっかけとなった場所なのである。20年前、この博物館を訪ねたことがきっかけで私は学芸員資格を取得し、現在の仕事に就くことになったのだ。
 リニューアルにともなって当時の面影が失われているのではないかと危惧しながら入館した館内は、現代風にきれいになってはいたものの基本的な展示に変化はなく、私は時間をかけて展示を見学して回った。
 子供が多く感傷に浸るにはいささか賑やかすぎたが、それでも満足した思いで私は博物館を辞し、痛む足を引きずって河原へ下りた。
 緑色の結晶片岩が作る河原の景観は、長瀞独特のものである。しばらく河原を散策し、何度も往復するカヌーや水たまりに群棲するおたまじゃくしをぼんやりと眺めて過ごす。
 鍾乳洞と博物館を訪れてしまえば、今日の目的は終了である。それでもまだ日は高い。このまま帰るにはやや物足りない心もちで電車に揺られるうち、西武秩父駅と連絡通路でつながっているお花畑駅に着。
 連絡通路を歩くうち、『秩父神社まで徒歩7分』の表示が目に留まる。
 実を言えば私は神社フリークでもある。星、鍾乳洞、神社と、おかしなものばかり好きだなあ、などと思われそうだが、そういえば夜祭で有名な秩父神社へはまだ行ったことがない。小さな旅を神社参拝で締めくくるのもオツだなあと、門前町の風情がある商店街をてくてく歩いて秩父神社へ。
 武蔵の国創建以前からあったという神社の社殿は、徳川家康が寄進したもので、日光東照宮と良く似た極彩色の彫刻が本殿の四周を覆っている。お宮参りらしく、乳児を抱いた若夫婦が本殿を背景にカメラのシャッターを押している。

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 参拝を済ませ、家康公寄進の造作をじっくりと鑑賞し、商店街をひやかしつつ駅へ戻る。秩父の市街は空襲を受けなかったのか、明治、大正のロマンを感じさせる建物がそこかしこに残っていてなかなかの風情である。
 日も傾いた。西武秩父駅は、帰宅を急ぐ人々で観光地らしい賑わいである。帰りの列車が混雑するかと危ぶんだが、観光客の大半は先発の特急に乗車し、次発の快速急行の乗客は意外なほど少ない。
 4人がけのボックスシートを一人で占領し、帰路に就く。
 窓外を流れていく景色を見ながら、何だか旅っぽい一日だったなあなどと考える。
 実家から秩父は近い。学生時代は、しょっちゅうバイクでツーリングに訪れた地だ。旅、と呼ぶにはあまりに身近な場所であるにもかかわらず、電車の窓にもたれて私は確かに「旅」を感じている。
 理由を考えていたら、前のボックスに座っている30代と思しき男性二人連れの声が聞こえてきた。
「いやあ、旅だったねえ」
「こんなに近い場所なのにね」
「どうしてかな。今まで何度も来てるのに、仕事がてらの日帰りなのにね」
 私は心の中で苦笑した。
 どうやら今日は、そういう日和だったらしい。そういえば、列車に揺られている乗客の誰もが、良い旅を楽しんだ、そんな顔つきで窓から差し込む西日を浴びている。

写真:秩父神社の彫刻

2008年03月13日

●天啓に導かれて(「秩父地学旅」追補)

 もう20年も前のことだ。大学を卒業した私は、東京の民間企業に就職し、ごくありきたりのサラリーマン生活を送っていた。仕事は楽しかったし充実感もあったのだが、その一方で、本当の自分はここにはいない、もっと他にやるべきことがあるはずなのではあるまいか、そんな空虚感と焦りを常に感じる日々でもあった。
 そんなある日、私はたまさかに長瀞の地を訪れた。長瀞といえばライン下りが有名だが、関東地方最大の変成帯(大きな地質変動があった所)であり、地学の研究者にとっては何回訪れても興味の尽きない場所である。加えて東京周辺ではとびきりの自然景観に恵まれていたから、子供の頃から地学や生物学が好きだった私には魅力に溢れた場所であった。
 その日も、地学的興味に加え、仕事に疲れた体と心を自然の中で慰めようという思いから、ふらりと長瀞を訪れたのであった。
 結晶片岩の露頭がある河原でしばらく過ごした私は、埼玉県立自然史博物館へと足を向けた。それまで何度も長瀞を訪れてはいたのだが、博物館など入らなくとも書物で得た知識とフィールド調査の経験から、長瀞の自然については熟知しているという自負があったせいか、一度も入館したことがなかったのだった。
 夏休み前だったためか、日曜日にもかかわらず私以外の入館者はいないようであった。
 館内は、地学展示室と生物展示室に分かれている。
地学展示室には長瀞の地形・地質の特徴や変遷が鉱物の標本とあわせて展示され、生物展示室には、見学通路の周囲に森のジオラマがしつらえてあり、さまざまな植物や動物の生態が展示されていた。

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 冷房の効いた館内は静かで清潔だった。相変わらず誰もいない館内を、奇妙に充足した気持ちで歩くうち、私の心はいつか、館内と同じようにしんと静まりはじめていた。それは、たとえばステンドグラスからひとすじ、午後の陽が差しこむ礼拝堂で感じるような法悦に似た心持だった。
 立ち去りがたい思いで生物展示室のジオラマ内を歩む私の心に、突然、何かが囁きかけた。
 いや、囁き、というよりもそれは、やはり何かの啓示だったのだろうと今でも私は思う。暗い山中を歩いていて、不意に眼前が開き、連なる山々と遥かな空の織り成す壮大な景色が眼前に拡がったときのように、あるいは降り続いた雨がようやくやんで、厚い雲の切れ間からひとすじ、差し込む陽光を見たときのように、霊的な何かに打たれて私は展示室の床に立ち尽くした。
(僕のいるべき場所はここなのだ。この静寂で清潔な展示室で僕はこれから仕事をしなければならないのだ)
 天啓、といえば大げさかもしれない。それでもそのとき、私は学芸員の資格を取らなければならないと、どこまでも透徹した思いでそう思ったのだ。
 帰宅した私は、すぐに試験勉強を開始した。社会人が学芸員資格を取得するには、文部省(当時)が年に一回、実施していた国家試験を受験するか、大学の通信課程を履修するしかないのだが、数週間のスクーリングが必要な通信過程は、当時、営業職で多忙だった私にはとても履修できなかったから、合格率の低い国家試験しか資格取得の道は残されていなかった。
 通勤の電車内と会社の昼休みを利用しての勉強が始まった。仕事と勉強を両立させるのは楽ではなかったが楽しかった。静寂の博物館で私に囁きかけたあの声は、試験が終わるまでずっと私の心に響いていた。
 埼玉県立自然史博物館。決して大きな施設ではないし、派手な展示があるわけでもない。そのような博物館がなぜ、私に天啓(あえてそう言おう)をもたらしてくれたのかはわからないが、とにかく私は、その声を頼りに学芸員資格を取り、プラネタリウムと天文台の仕事に就くことになった。
 埼玉県立自然史博物館は、私にとって特別な位置を占めている。あの日、長瀞の地を訪れなかったら、そして博物館に入館しなかったら、その後の私の人生はずいぶんと変わったものになっていただろうと思う。

写真:生物展示室のジオラマ

2008年03月15日

●雨の観望会

昨夜は、「月と土星を見る会」と題した観望会でした。
天文台で主催する観望会には2種類があり、ひとつは天文台現地で開催する通常の観望会、もうひとつは移動機材による出張観望会です。
昨夜、行ったのは、後者の出張観望会でした。
場所は、揖斐川町の平野部にある揖斐川歴史民俗資料館。舗装された駐車場と野外トイレがあり、光害のほとんどない良い場所です。

昨年の「月と土星を見る会」は晴天に恵まれ、200人ほどの参加者で会場はいっぱいになりました。
ところが、今年は朝から雨。
悪天候の場合は室内で講話という予定だったのですが、開始時間間近になっても参加者はパラパラ。
まあ、仕方ないか、と思っていたところ、開始時刻直前になってどっと参加者が集まり、結局、30人ほどの親子連れが集まってくれました。
望遠鏡を並べて光学系の説明を行い、次いでプロジェクターで宇宙の果てまでのシミュレーション。
悪天候の場合はいつも、星が見えない分だけお話には力が入ります。
そのせいか、皆さん喜んでくれて、和やかな雰囲気で観望会を終えることができました。

観望会に悪天候はつきもの。
それでも参加者を楽しませる努力を、今後とも継続していきたいものです。

2008年03月17日

●月がきれいでした

春や秋、何日も晴天が続くような大きな高気圧に覆われた日は、透明度は優れないながら大気の揺らぎが小さく、月や惑星を観察するには条件が良くなります。
昨夜もそんな天気で、中天にあまりに月がきれいでしたから、8㎝屈折望遠鏡を持ちだしてカミさんと月を眺めていました。

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ふだん私は、あまり月や惑星には(お客さんに見せる以外は)望遠鏡を向けないのですが、昨夜は春の陽気に誘われて、つい望遠鏡を組み立ててしまったというわけです。
月は、半月過ぎ、月齢10前後がいちばんきれいなように思います。ちょうど欠け際にコペルニクスクレーターが見える月齢です。
昨夜はこれまた珍しく、月の写真まで撮ってしまいました。

写真:EOS Kiss-D ISO800 1/400sec. 80mmR F8.8

2008年03月19日

●国立天文台見学記(前編)

「東京天文台」といえば、ちょっと前までわが国の天文学を象徴する存在であり、一般人やアマチュア天文ファンにとっては「象牙の塔」であった。
 実際、一昔前は、鬱蒼と武蔵野の木々が生い茂った正門にはいかめしげな守衛が立ち、職員や研究者以外の入台は厳しく制限されていた。
 ところが時代は変わるものである。情報公開を迫られるようになった公官庁は、予算獲得のためにも、競ってさまざまな媒体によるPRや施設内見学を行なうようになった。
「国立天文台」と名称を変更した東京天文台は特にその変容が著しく、広報普及責任者の熱意と努力もあって、わずかな間に公官庁の中でも随一の公開施設として生まれ変わった。アマチュア天文ファンとの連携を重視するようになり、子供の頃にはあれほどいかめしく敷居の高く見えたその正門を、この私までもが年に何度かくぐることになった。
 アマチュア天文ファンだけではない。平日はほぼ毎日、誰でも構内を見学することができるようになった。隔世の感がある。素晴らしいことだと思う。同じ官庁でも、特定財源を使って親睦旅行をしたり福利厚生備品を購入しているどこやらとは雲泥の差である。

 そんな国立天文台に、先日、ふらりと出かけた。
 ふらりと、と言うからには、さしたる用事があったわけではない。東京滞在中の半日を、天文台施設の見学に費やそうと訪れたのである。これまで何度となく訪れているものの、いつも予定がぎっしりで一度も構内見学をしたことがなかったのだ。

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 春本番を思わせる好日であった。古びた正門をくぐり、すぐ横の受付で見学の申込みをする。考えてみれば受付に寄ったのは初めてである。
 受付で貰ったパンフレットを手に、まずは国登録有形文化財である第一赤道儀室へ。ツアイス製の口径20cm屈折望遠鏡が古びたドーム内に設置されている。構内に現存する最古の建物である。望遠鏡には太陽写真儀が同架されており、1939年から60年間、太陽面のスケッチと撮影が行なわれていた。ツアイス製であるからにはもちろんのドイツ式赤道儀は、重錘式の追尾装置が備えられている。地球の重力を上手につかい、電気を使わずに追尾ができる優れものだ。
 奥へ進むと、左手にひときわ高い建物が見えてくる。1930年建設のアインシュタイン塔だ。地上5階、地下1階の建物内はシーロスタットになっていて、屋上のドームから入った太陽光は半地下の暗室へ導かれ、分光観測ができるようになっている。アインシュタインの相対性理論を検証する目的で建造された建物であることからこの名がつけられた。茶色のタイルが張られた外壁は、モダンかつ重厚な印象だ。
(後編へ続く)

写真:第一赤道儀室

2008年03月22日

●国立天文台見学記(後編)

 さらに奥へ進む。木々の間から巨大なドームが覗いている。高さ19.5m、ドーム径15m、1926年建設のこの建物こそ、天文台のシンボルともいうべき65cm屈折望遠鏡を納める大ドームだ。

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 ドーム内に入れば、頭上を圧して65cm屈折望遠鏡がそびえている。わが国最大の屈折望遠鏡であり、1998年まで位置観測を主に行ってきた。焦点距離1021cm(1000mmではない)、ドイツ式赤道儀に支えられたその姿は重厚な機能美にあふれ、屈折望遠鏡とはこうでなくてはいけないと思わせられる威容である。
 後ろ髪を引かれる思いで、パンフレットに従い、次の見学地の「展示室」へ。
 さほど広くはない部屋に、すばる望遠鏡をはじめ国立天文台が取りくんでいるプロジェクトの数々が体験型の模型で紹介されている。これまでたどってきた重厚な天文台の歴史とは一転した最先端の観測や研究装置の数々に、目を見張らされる思いがする。
 1930年建設の旧図書館の横を通り過ぎ、明るい芝生の道をたどれば、外観のみ見学できるレプソルド子午儀室。1925年建設のこの子午儀を使って惑星や小惑星の位置観測が行われてきた。
 芝生を踏んで1924年建設のゴーチェ子午環へ。眼視による位置観測を引き継いで、CCDカメラによる精密な観測が行われてきた施設である。
 その先には、1982年建設の自動光電子午環が銀色の近代的な外観で鎮座している。建物の左右にはすりばち状の窪地が対称に掘られており、窪地の中心の建物に納められた光源から光を発して、望遠鏡の光軸位置とたわみを精密に検出することができたそうだ。
 芝生エリアには新旧3基の子午儀が並んでいるわけで、わが国の天体観測の主要な目的が、天体の精測位置観測であったことがうかがわれる。現在のような物理観測が主流になったのは、実はごく最近のことなのである。

 一般見学者が入場可能なエリアはここまで。毎月2回の公開観望会が行なわれる50cm望遠鏡もふだんは公開されていない。いずれ、夜の観望会も一般市民として参加してみたいと思う。
 とはいえ、これだけでも十二分に天文台の、というより日本天文学の歴史と栄光を堪能できる。
 ことさらに「見学」などと力むこともない。武蔵野の緑と静寂の中に身を置くだけでも心が安らぐはずである。天文ファンならずとも一度は見学されることを強くお勧めする。

写真:65cm屈折望遠鏡のドーム
 

2008年03月24日

●新緑の天文台で(前編)

 先日は、前後編に分けて国立天文台の訪問記を書いた。どうせなら、ということで、今回も国立天文台ネタを書く。それも今を去ること25年前、1983年に、「象牙の塔」であった国立天文台に招かれて第一線の天文学者と議論を交わした話である。

 東大和天文同好会という会がある。1973年に、現在、愛知県東栄町の「スターフォーレスト御園」で天文担当として活躍しているS氏と私が創立した天文同好会だ。
 当時、東大和天文同好会では流星の観測が盛んであった。年間30夜以上の観測を5年間継続して、日本流星研究会から表彰状をいただいたほどであるから我ながらがんばっていたものだと思う。
 当時の流星観測は、肉眼で流星の数を数え、星図にプロットする眼視観測が中心だった。私たちも、若さにまかせてがむしゃらに観測を行っていたのであるが、観測を続けるうちに眼視観測に関していくつも疑問が湧いてきた。
 眼視観測では、観測時の最微等級、透明度、雲量などの条件によって、観測可能な流星数に大きな差異が出る。観測した流星数そのままでは統計処理の対象になり得ない。
 そのため、ナマの流星数にいくつかの係数をかけて、雲や障害物がなく6.5等星まで見える理想的な夜空のもとで観測したであろう流星数に補正して同一条件で互いの観測を比較できるようにする。
 また、流星群の場合は、輻射点高度が高くなるにつれて観測可能な流星数が増加するはずであるから、異なる時間帯の観測を比較するために輻射点高度の補正も行う。

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 補正に使用する係数については、昔から多くの学者が研究を重ねてきた。どれも完璧とはいえないが、いずれにしてもナマのデータでは比較にならないため、正しい流星数と最も近似の数値が得られると考えられていた係数を採用していたのである。
 私たち東大和天文同好会のメンバーが疑問を感じ始めたのは、この係数についてだった。
 常々、例会などで話し合ってきた係数に関する疑問を、私たちは会誌の「ほしぞら」に座談会という形でまとめた。座談会でわかりやすく疑問を提示した上で、当時計算課長だったY氏が数式とグラフで理論的裏付けを示した。
『流星の眼視観測に未来はあるか』という、いささか挑発的な座談会のタイトルがいけなかったのだろう、天文雑誌の編集部で会誌を読んだ国立天文台のT先生から面談したいという要望が舞い込んだ。
 T先生といえば、アマチュア出身ながら観測派天文学者の旗手としてバリバリ業績を上げ、アマチュア向けの著書も多い有名人である。
 そんなT先生のお誘いに私たちは勇躍した。かくなる上はT先生を何としても論破し、そろそろ沈滞ムードが漂いつつあった流星観測を根本から変革してやろうと大いに意気込んで、5月のある日、東京天文台を訪れたのであった。

写真:国立天文台の65cm屈折望遠鏡。大きすぎて全部が写りませんでした。

2008年03月26日

●新緑の天文台で(後編)

 T先生の第一声は「いやー、キミたち、バイクで来たの?若いねー」だった。
 そう、象牙の塔であった天文台に、こともあろうに私たちはバイクを連ねて押しかけたのであった。
 今でこそ天文台内の建物は改築され、近代的な外観となっているが、当時はどの建物も年月を経て黒ずみ、うっそうと茂った樹木に覆われて、よく言えばレトロチックな、悪く言えば魔術的な雰囲気を漂わせていた。
 そんな建物の一室に私たちは誘われた。磨きこまれた古めかしい調度品と古色蒼然とした書籍に囲まれた小さな部屋だった。
 T先生は私たちをソファに座らせると、自らは事務椅子に腰を下ろした。
「いやあ、ボクも若い頃はずいぶん流星を観測したもんだヨ」
 ニコニコ笑って言う。黒縁眼鏡にライオンの如き蓬髪。
 書棚から一冊の本を取り出す。
 いきなり来た。小槇孝二郎著の「流星の研究」。山本一清先生が序文を書かれている幻の稀覯書である。
 本をめくりながらT先生は、日本の流星観測史を語り出す。
 肝心の理論にはなかなか進まない。
「その頃の日本は欧米の天文学を取り入れるのに必死でね。流星も先端分野だったんダ。こうして先達が身を削る苦労を重ねたからこそ、世界に誇れる現代日本天文学があるわけだナ」
 延々と天文学史の講義が続いた後で、
「で、キミたちの研究なんだけどね」
 ようやく本題に入ったときには、優に1時間は経過していただろう。
 一隅にかけられた小さな黒板に図を示しながら、T先生は丁寧に私たちが問題にしている係数のおさらいをする。それに対して、私たちも黒板に図示しながら反駁する。
 いや、理論的に反駁していたのは、正確に言えば計算課長のY氏だけだった。私を含めたあとの4人は、ちゃちゃを入れていただけだったかもしれない。

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 若いY氏の理論は精妙で攻撃的だった。T先生も何度か腕を組んで考えこんだ。
 いつしか、小さな窓から差しこむ日ざしが薄くなりはじめていた。私たちの頭の中は流星一色に染まっていた。ふだんは使用していない脳の奥深い部分が懸命に働いているのがわかった。ひとつの理論を追いこむ知的快感に、いつのまにか私たちは酔っていた。
 T先生の飾り気のない言葉が、心の奥底にしみこんでくる。正確で理論的で、それでいて文学的香味に溢れた言葉。
 長い講義が終わったとき、5月の長い日は暮れかけていた。
「キミたちの言うことはよくわかった。すばらしい。感動したヨ」
 先生は、ゆったりとした口調でそう言うと、立ち上がった。
「流星の研究」を丁寧に書棚に戻す。
「ボクはね、キミたちのような気鋭のアマチュアと話すのがすごく楽しいんだ。ボク自身も勉強になるしね」
 ふたたび椅子にかけた先生は続ける。
「キミたちのようなアマチュアこそが21世紀のこの国の天文学を担うのだとボクは思っています。山本一清先生や小槇さんが創り上げた日本の流星天文学を、これからも受け継いで発展させて下さい。そのために係数をはじめ、観測方法の一層の研究が必要です。ただ、若い人は往々にして理論に溺れてしまいがちだ。学問とは日々、真の値に向かってデータを近似させていくことです。理論にかまけて観測を忘れないで下さい。観測をしながら正しい理論を探る努力を続けて下さい。キミたちには未来がある。どうか精進して下さい。今日は楽しかった。ありがとう」
 部屋を出るとあたりは夕暮れだった。むせるような新緑の匂いだけが薄暗い天文台の構内を満たしている。
 私たちの誰もが言葉少なだった。先生がなぜあれほど長い時間を先達の歴史に費やしたのか、今となってはわかりすぎて切ないほどだった。
『キミたちのいうことはよくわかる。補正係数については議論の余地がまだまだあるしどんどん研究してほしいと思う。ただ、正確を期すあまり、いたずらに悲観的な学説や理論をふりかざして、ただでさえ減少しつつある観測者を減らすだけの結果をもたらすことは
避けてほしいのだ。前向きに観測をして研究をして、明治以降、営々と観測を続けてきた先人の業績を引き継いでほしいのだ』
 半日間の集中講義を通して先生が言いたかったことはこれだった。アマチュア出身だからこそ先生の言葉は私たちの心に沁みた。
 バイクのエンジンをかけ、私たちは走り始めた。どこまで走っても新緑の匂いが追いかけてくる夕暮れだった。

写真:アインシュタイン塔

2008年03月30日

●田舎の学校が抱える問題点

都会人のための田舎暮らし実践講座、久々に書きます。
今回は子供の教育について・・・。

改めて言うまでもなく、子供がいる家庭において、教育は最大の関心事です。
最近はどこも少子化が進み、過疎地の学校では全校生徒が十数人ということも珍しくなくなりました。
児童生徒が少ないということは、少人数教育の良さが活かせるような気がしますが、幼なじみ集団のまま過ごすために競争が行なわれず、結果として学力が向上しない弊害の方が目立つような気がします。
メンバーの入れ替わりがないために、いったんいじめが発生すると、卒業まで続くといった事例もよく聞きます。
田舎の学校はのんびりしていて、いじめなどないだろうなどと思うのは大きな間違いです。
いじめというものは小さく閉鎖的な集団であればあるだけ発生しやすいものなのです。
もちろん、田舎の学校には助け合いや幼なじみ同士で思いやる心も育っていますが、
「田舎の子供はみんな素直で純朴」
というのは、かなりの部分、都会人の思い込みに過ぎません。

義務教育が終わり、高校進学の段になると、さらに大きな問題が発生してきます。
都会では通える範囲にさまざまな学力レベルの高校がたくさんありますが、田舎ではまず高校の数自体が限られています。
加えて、鉄道やバスといった公共交通は次々に廃止に追い込まれ、通学する手段がほとんどありません。
田舎では、親が毎日、車で子供を高校まで送迎するというパターンが増えています。
毎日のことですから、親の負担は半端なものではありません。
そうまでしても、希望の学力、希望の学科を選ぶことは困難というのが田舎の現実です。

「田舎はのんびりして過ごしやすいところ」という都合の良いイメージだけを持っている人は、たとえば田舎へ移住すれば子供のアトピーが治るだろうとか、不登校でなくなるだろうなどと、子供がかかえるトラブルについても都合の良いことを考えがちですが、これまで述べてきたように、田舎の学校にも大きな悩みと問題があります。
田舎暮らしを始めたがために、かえって子供さんのストレスを増やしてしまうことにもなりかねません。
田舎へ移住する際には、自分たちのことだけではなく、子供の将来のことまで考えて決断する必要があるのですね。