●中央アルプス千畳敷、氷雪の一夜②
松本行きの普通列車に乗りこんだ私たちは、辰野で急行「天竜2号」に乗り換えた。
伊那谷を進むに連れて、左手に雪をいただいた山々が見え始める。
「まだあんなに雪があるじゃんかよ」
悲しげに叫ぶIgawa氏を尻目に、登山が趣味の山吉は嬉しそうである。
「これから登る中央アルプス、4mの積雪だってさ。山頂は暴風雨に違いない。気温も真冬なみに下がるだろうし、うわあ、楽しいな、楽しいな!」
こいつ、やはりマゾだったか。そんなことを思ううち、駒ヶ根駅に列車は滑りこんだ。
駅から、これから登る中央アルプス山系が見えるはずだが、低く垂れこめた雲に厚く覆われて全く見えぬ。
頭をもたげ始めた不安を押し殺しながら駅前の食堂で腹ごしらえをし、11時30分のバスに乗りこむ。
バスは空いていた。私たちは最前席に腰を下ろし、窓外の景色にしばらくは無邪気にはしゃいでいたのだが、次第に皆、無口になってきた。
ダートである。道幅は、ほぼバスの車幅と同じ。左手は千尋の谷。加えてヘアピンカーブの連続だ。カーブでは、バスの先端が路肩からはみ出す。最前席に乗っている私たちは中空に飛び出した格好になり足元に地面が見えぬ。タイヤは辛うじて路肩に乗っているのだろうが、私たちには、今、乗っているこの乗り物がバスとはどうしても思えない。航空機かロープウェイにでも乗っている気分である。小惑星のごとき巨岩が路上に鎮座している箇所もあり、あのような物体が頭上から落下してきたら、どうなってしまうのだろうと思う。
「しらび平」に到着した。ここからロープウェイに乗り換えて、千畳敷までの900mを一気に上る。
ロープウェイは、すぐにまっ白な霧の中に突入した。何も見えぬ。ただ、ぐんぐん高度を稼いでいることだけが体感できる。
千畳敷は、3mの積雪と濃霧、強風、そして横殴りの雨であった。
「ね、やっぱりやめた方がよかったでしょ」
イエティ氏の言葉に皆、熱く頷きながら、それでも仕方なく防寒具と雨具を身に着ける。とはいえ、雨という事態は容易に想像されていたにもかかわらず、まともな雨具を用意していたのは山岳部長の山吉とイエティ氏のみで、私を含めた他の4人はどうしようもない軽装だ。
「オレ、ビニジャンだよお」
Igawa氏が泣きそうな声で言う。
懐が決して暖かいとはいえないIgawa氏、ビニール製の黒いジャンパーを平常から愛用している。遠くから見ると皮ジャンにも見えなくはない造作だが、実態はペラペラのビニール製のため、防寒効果も耐久性もないという代物である。
「山なんて登りたくないよお。もう帰ろうよお」と駄々をこねていたIgawa氏だったが、それでもいざ出発となると、
「冬山をビニジャンで登ったのは、歴史上、オレ一人だろうな」などとホクホクしていたから、やはり偉大な男には違いない。
山吉を先頭に、千畳敷カールをゆっくりと歩き出す。
「踏み跡を外さないように!」
山吉の鋭い指示が飛ぶ。
太腿まで雪に埋もれながら苦闘することしばし、道は俄然、稜線に向けての直登となった。
いつのまにか氷雨が止んでいる。あるかなきかのトレースをたどるうち、稜線へとたどり着いた。さらに数分、目指す宝剣山荘に到着する。
屋根まで雪に埋もれた山荘の周囲には、すでに10数組のパーティーがテントを張っていた。
霧が深い。数メートル先すら判然としない。
山荘の裏は絶壁だった。絶壁の遥か下から、巨大な風圧が吹き上げてくる。風は渦巻き、雲を吐き、山全体を吹き飛ばそうとするかのように狂奔している。
しばらく呆然として、その巨大な風の所業を見つめていた私たちに山吉が指示を出す。
「早くテントを張ろう。場所をとられちまうぞ」
思い出したように、皆、動きはじめる。
「akapi、スコップは?」
山吉の問いにakapi、「えーと・・・。忘れた」。
軽やかな返答に絶句していた山吉、気を取り直したように言葉を継いだ。
「機械文明に頼っちゃいかんな。やはり最後は人力だ」
強風と濃霧の中、私たちは1時間あまりかけて、凍える手で雪を掘り、足で雪面を踏み固めた。
「スコップ・・・。実に偉大な機械文明だ。俺たちは人類の叡智をもう一度見つめなおすべきなんじゃないのか」
押し黙ったまま、心の奥底でそんなことを考えつつ雪を掘り踏みしめる私たちの心中など知るはずもない他のパーティーは、偉大な発明品であるスコップを駆使し、私たちがまだ半分も雪を踏み固めないうちに、すでにテントを設営し、あまつさえその中でコーヒーなどを飲んでいる様子である。
「どーしてオレらはいつもこうなんだろう」
足をせわしなく動かしつつ、Igawa氏がぶつぶつと呟く。
強風に煽られつつ、何とかテントの設営を終える。もう全員、フラフラである。
べちょべちょの靴を脱ぎ、テントに転がり込むと、ようやく平安が訪れた。誰もが精も根も尽き果てたようすで自分のシュラフに潜りこむ。
テントの中は静かである。外の強風が嘘のようだ。
「これからどうする?」
誰からともなく呟く。天候は悪化の一途をたどっているし、何もすることはない。
「メシ食って寝る!」
山吉が、きっぱりと言う。
「山で何が楽しいかといえば、飯を食って寝ることだ」
確かに今の状況でそれ以上の真理はない。
「メシの前にコレでしょ」
イエティ氏が、ドンとウィスキーのボトルを置く。
「さ、どんどん食って荷物を軽くしてねー」と、じーさん。
私も同じ心境だ。じーさんと私は食料係なのである。
二人のザックから食料をぶちまけてみれば、あるはあるは、シーレーション(アメリカ軍の携行食糧)、チリ、鳥めし、牛めし、チキンライス、牛肉、焼肉のたれ、ドライフルーツ、バターライス、鶏肉、梅干、レモン飴、サラダの缶詰、マグロのフレーク、シーチキン、お米、スープ、なぜか白玉、ゆであずきの缶詰まである。
山での食事とは思えない豪華メニューを食し、とりあえず胃袋も心も安らかになった。
ただ、皆が一様に嫌がったのは水である。水そのものではない。水をいれるために持参した容器が嫌われた。
「なんで現像液の保存容器なのー!?」
「いや、何でと言われても・・・。液体を入れる容器のうちで、これがいちばん身近にあったので・・・」
それから水を飲むたび、病気になりそうだとか酢酸の匂いがするとか文句を言われたが、密閉性も優れているし、たくさん入るし、悪くないと思うんだけどなあ。(つづく)
