2010年10月25日

●なぜ海が見たいのだろう

海が好きです。
『なぜ海が見たいのだろう。もう若くもないのに』とは、正やん(伊勢正三)の歌詞の一節ですが、若い頃は若い頃なりに、年を取れば年を取ったなりに海への想いは変わらないような気がします。

先日は、東京へ行った折に、埋め立て地に造成された、とある人工の渚に行ってきました。
あんまり時間がなかったので、とにかく東京駅から近い海、ということで訪れたのですが、平日にもかかわらずたくさんの人が来ていました。
家族連れ、恋人同士、友達同士、ひとりでぽつねんと、と、年齢層も間柄もさまざまな人たちでしたが、たとえこんな人工の渚でも、誰もが波の音を聴いて何かを思い出したり心を洗ったりしにくるのだろうな、などととりとめもないことを考えていました。

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やや遠景を見れば、高層ビル群が海の上に蜃気楼のように浮かび、一人、砂浜に座る私の背後を、小さな子供が笑いさざめきながら駆けてゆきます。
潮の香りは10月の日ざしに見合うように淡く、はかなげな潮騒を聴きながら、私は1時間ほどもただ波打ち際に座っていました。
そうして打ち寄せる波を見つめていると、心の奥底に形にならない漠とした想いが浮かんでは消えます。
私の人生を彩る小さな夢や希望、そして諦め。
そうしたさまざまな想いが、波の音と秋の光の中で混ざり合い、少しずつ昇華して。
もちろん、夢をかなえる具体的な方策が見つかったり、いつも心の奥底を満たしている均質な諦め(基本的な絶望感という方が正しいでしょうか)がなくなるわけではありません。
とはいえ、海を見て、波の音を聴いて、小さな安らぎを感じるのが単なるマスターベーションなのかといえばそんなことはなく、そうした時間の中で、私はいつも、漠としており具体的ではまったくないものの、何かを得てきたように思います。
きっと私だけではなく、ここにいる全ての人が、小さな夢や諦めを抱きしめるためにこの人工の渚を訪れているのだろうな、などと思いながら、私は海を見つめていました。

『なぜ海が見たいのだろう。もう若くもないのに』
若くないからこそ、海が見たくなるのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は砂を払って立ち上がりました。