2006年07月01日

●藤の吊り橋

揖斐川町役場藤橋振興事務所のすぐ横に、東西横山集落を結ぶ橋がかかっています。
今でこそコンクリートの橋ですが、明治二十五年に木橋に架け替えられるまでは、藤の蔓を編んで作
られた橋がかかっていました。旧藤橋村の村名の起源となった吊橋です。

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安部晴明が架橋を指示したとも言われ、正保二年(一六四五)の美濃国絵図にも描かれていることから、近世を通じて架け続けられてきたことは確かなようです。
橋は、山から切り出した白口藤の大蔓を、両岸に植えた大木に結びつけて架けられていました。
それだけの強度と長さを持った材料を調達するだけでも大変でしたし、何の手がかりもない渓谷を挟んで藤蔓を結ぶのも非常に危険な作業でした。
橋の長さは約三十間、幅は四尺、揺れる橋の上から見下ろせば、逆巻く急流に目がくらみそうだったそうです。それでも村人は、重い荷を背負って平気で渡っていたとのことでした。
今、緑の香りに包まれた橋を渡れば、揖斐の川面はあくまで青く、揺れる吊橋を歩いた当時の旅人と心が重なってゆくようです。藤の花が川面を紫に染める初夏が、晴明ゆかりの藤の吊橋跡の白眉です。

2006年07月15日

●揖斐川西谷をたどる

旧徳山村の開田から、揖斐川の流れは東西に分かれます。冠山へ向う流れが本流の東谷、もう一本が西谷と呼ばれています。冠山峠を目指す車の行き交う東谷に対して、行き止まりの西谷は訪れる人もあまりありません。

西谷沿いには、古くから戸入、門入の二集落が開け、門入からはさらに、ホハレ峠から坂内村川上を経て、滋賀県方面への道が続いていました。
戸入、門入、どちらも入という文字を含んでいますが、「にゅう」とは水銀を産する場所を意味する地名です。室町時代には「門丹生」と書かれ、昭和60年の調査で門入から西谷と分かれる入谷に、水銀鉱山があったことがわかっています。戸入は、門入への入り口という意味があるものと思われます。

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西谷集落への生活用品は、ほとんどがホハレ峠を人の背に負われて入ってきました。ホハレ峠とは変わった名前ですが、背に食いこむ荷物の重さに、頬が腫れるほどであったということからついたとも言われています。
門入からホハレ峠を経て坂内村へ続く道が掻かれている地図もありますが、今は完全な廃道であり、通り抜けはできません。

ダム工事が進む東谷と違って西谷は静かです。村人が去った集落に、木々はのびのびと葉を茂らせ、鳥は無心にさえずり、水底に沈むまでの束の間の静寂を謳歌しているようです。

写真:門入からホハレ峠への橋
(月刊「西美濃わが街」2004年6月号)

2006年07月28日

●月にまつわる言い伝え(旧藤橋村)

折に触れて、地域で天体に関する言い伝えや伝説を収集しています。
とはいっても、星を方角や航海のしるべとして使っていた海辺の地域と比べると、山間地では驚くほど天体に関するそうした情報が乏しいのが実情です。
そんな中で最近、西美濃プラネタリウムで働いて下さっている方から月にまつわる地域の言い伝えを聞くことができました。

1.月の暈(かさ)に関して
①破れ暈(暈の中に星が見える)は天気が良くなる
②暈の中に星が見えない場合は天気が悪くなる

2.月の西側に星が近いと身内に不幸がある

太陽や月が暈を被ると天気が悪くなるというのはどこでも言われますが、暈の中に星が見えるのは、上空の気温が低く、細かな氷の雲が薄く空を覆っている場合だと思われます。強い冬型の場合、旧藤橋村辺りでは時雨模様の天気となりますが、弱い冬型の場合は逆に快晴になることが多くなります。
月の暈の中に星が見えるというケースは、おそらく弱い冬型の天候なのでしょう。地域性を表した言い伝えだと思います。
「月の西側に・・・」については、根拠がわかりません。西方浄土のある方角、ということからこうした言い伝えが生まれたのでしょうか。

他にも、揖斐谷、春日谷に伝わる星がらみの言い伝えをご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて下さい。

2006年08月31日

●徳山ダム試験湛水

徳山ダムの工事がほぼ完成し、試験湛水が9月25日から始まるとのことです。

徳山ダムは国内最大の多機能ダムとして計画され、旧藤橋村よりさらに福井県側にあった旧徳山村の全住民を移住させ、種々の反対運動を巻き起こしながら営々と建設が進められてきました。
総事業費は最終的に約3353億円となる見込みで、わが国の財政状況が悪化し公共事業が次々と廃止・縮小されるなかでも、毎年ほぼ満額の予算が認められてきたのです。

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このダムは、私の勤める西美濃プラネタリウム・西美濃天文台がある旧藤橋村地内に建設が進んでいることから、旧藤橋村は過去30年の間、ダム工事に翻弄されてきたといっても過言ではありません。
私が旧藤橋村へ移住してきた頃には工事が本格的に進められるようになり、現在でも、プラネタリウムや天文台の周囲はダム工事用の宿舎や事務所でいっぱいです。また、ダム工事に絡んで良きにつけ悪しきにつけさまざまなマスコミが取材に訪れ、そのあおりを受けて西美濃プラネタリウムも「ダム工事の補助金で作られた」とか「旧藤橋村の住民は、一人あたりいくらの交付金を現金で支給された」などといった根も葉もない報道が全国ネットで流されたりもしました。その意味では、ダム建設の是非はともかくとして今回の湛水試験開始の報道は、田舎移住者の私としては、ひとつのエポックとなる出来事には
違いないものです。

ダム工事が本格化する以前には、旧徳山村の風物を調査したり撮影するために足しげく現地を訪れたものですが、湛水試験が始まればそれもできなくなります。
慣れ親しんだ揖斐川上流の美しい景色、そしてそこに住む多くの生き物の生息場所が永遠に失われると思うと、ダムという壮大な自然破壊に対してやはり疑問を感じざるを得ません。

いずれにしても、後戻りはできなくなりました。
湛水が始まる前に、皆さんもぜひ一度、徳山の姿を見てください。国策のために無念の思いで故郷を離れた旧徳山村民の、そして、冷たい水に浸かって死んでゆく木や草、動物や昆虫の無言の声に耳を傾けていただければと思います。

写真:ほぼ完成した徳山ダム(2006年7月撮影)

2006年09月08日

●冠山地形地質考

揖斐川町藤橋の北端、岐阜県と福井県境にそびえる冠山は、烏帽子形の特異な山容で知られています。標高は1257メートルとさほど高くありませんが、ブナの原生林を縫う登山道や山頂直下のお花畑には高山の趣が漂い、山頂から俯瞰する県境の山並は壮観の一言です。

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山頂へは峠から二時間弱、尾根伝いの平坦な道をたどります。やがて冠平と名づけられる広いお花畑へたどり着けば、天に向かって槍を突き立てたような山頂が、すぐ目の前にそびえています。ここからは、少しばかりスリルが味わえる岩登り。それまでの道のりがなだらかだっただけに、山頂付近の急傾斜に驚かされます。

冠山を含めた越美山地は、国内でも有数の隆起が盛んな地域ですが、大昔には隆起活動が止まった時期があることが知られています。隆起が止まり、もっとも侵食が進んだ時代の準平原面が冠平、侵食に耐えて残った岩峰が冠山頂というわけです。その後、隆起活動が再開したために、冠平と山頂はそのまま持上げられ、現在の標高になりました。ちなみに冠山山頂付近は、チャートという非常に硬い岩石でできています。

冠平からは、縄文時代の石器が出土しています。とはいえ、縄文人が冠平に住んでいたわけではなく、どうやら尾根道を歩いていた縄文人が、うっかり落としていったらしいのです。冠山を含む県境の尾根道は、大昔から人々が往来した道だったのです。

(月刊「西美濃わが街」2004年7月号掲載)

2006年12月23日

●旧谷汲村の文化財整理その2

先日も書いた旧谷汲村の民俗資料整理、半年以上かかってようやく整理と目録作成が一段落しました。
一昨日は、とりあえずの作業完了ということで、クリーニング後、整理票を貼った資料を、埃よけと万一の雨漏り対策として透明なビニールで覆いました。
雨漏り?と思われるかもしれませんが、そもそもこの作業が始まったきっかけは、資料を展示している建物が極度に老朽化しており、資料の劣化が急速に進む可能性があるためでした。実際、昨年の冬には、屋根に積もった雪が溶けてかなりの雨漏りがありました。
はじめは「ばっちい民具ばかりだなあ」と思っていましたが、半年以上付き合ってみると、次第に親しみが湧いてきます。資料について調べるほど、木と紙で驚くほど実用的かつ堅牢に作られていることに気がつきます。

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11月以降は作業もかなり寒くなってきたのですが、気がつくと片隅にあった火鉢に炭を熾して、ごく当たり前に暖を取っていました。石油ストーブや、ファンヒーターを使う気がどうしても起こらないのです。
炭の匂いの中、使いこまれた民具に囲まれていると、やはり日本人は、プラスチックなどではなく木と紙を使って生活するべきなのだと気づかされます。
「人にも自然にも優しい日本古来の文化を取り戻さなくてはいけないね」
すっかりきれいになった資料に囲まれて話し合ったことでした。

写真:これ、「蚊いぶし」といいます。けっこう可愛い形をしています。

2007年01月22日

●峠を越えて

 山に囲まれた旧藤橋村では、昔から峠道を越えて近隣集落との交流が行われてきました。下流の旧揖斐川町までにしても、今でこそ、国道を走って30分ほどですが、昔は、屈曲を繰り返しながら延々と揖斐川の川筋をたどる不便な道でしたし、旧坂内村や旧久瀬村の小津へ行くにしても、徒歩で山道を越えていました。
 揖斐から、現在、揖斐川町藤橋振興事務所のある横山まで車道が開通したのが明治25年です。それまでは揖斐川に沿った山道で、揖斐からの物資運搬は、背中に背負っての徒歩が普通でした。徳山まで車道が開通したのは明治40年でしたが、現在は主要道となっている国道417号線ルートは杉原道と呼ばれ、車道開通までは両岸が断崖絶壁で、とても通れる道ではありませんでした。車道開通後も、杉原道は、落石や増水、転落の危険が多く、岐阜方面から徳山へのもうひとつの主要ルートである馬坂峠越えの道路整備が進められ、雪崩による犠牲者を出しながらも昭和19年に完成、昭和33年には岐阜乗合バスが通うようになり、交通は飛躍的に改善されたのです。

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 坂内方面へは、現在の藤橋村役場付近から、旧坂内村広瀬に至る鉄嶺(くろがね)峠を越えての往来が行われていました。明治27年には、坂内川沿いの車道(現国道303号線)が開通しましたが、鉄嶺峠越えの道の方が距離的に近いために、大正はじめ頃まで利用されました。鉄嶺峠には、お地蔵様が立っており、ほとんど通行する人のいない今でも、ひっそりと峠道の安全を見守っています。
 今では、こうした峠道のほとんどは草に埋もれ、廃道となりつつありますが、旧藤橋村に限らず、山間部の集落はどこも、峠道と尾根道で結ばれ、意外なほど広い範囲での交流が行われてきました。旧徳山村では、信仰や生活様式に越前の影響が色濃く見られるなど、静かな峠道は、文化交流の道でもあったのです。

写真:鉄嶺峠からの景色

2007年09月28日

●揖斐川町の地誌「ウソ越え峠」

 ウソ越峠という峠道がある。旧徳山村から福井県今庄町へ至る高倉林道にある峠である。
 県境の秀峰、冠山へ続く国道417号線から分岐し、簡易舗装の狭い林道をたどる。
ブナやナラの緑が美しい道は次第に急峻となり、いよいよ登りつめると小広い峠にたどり着く。道はここから下りにかかり、どう見ても県境である。やれ嬉しやと思ったのも束の間、しばらく行くと再び急峻な登りが始まる。

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 騙されたようだが、峠であることは間違いない。ウソ越峠からは、赤谷、釈迦嶺への林道も分岐しており、越前へ下りたつもりが再び徳山へ戻ってしまったということが、昔はたびたびあったという。
 狐につままれたような峠ではあるが、周囲の景観は素晴らしい。はるか遠方に冠山が望め、道谷と赤谷が山肌を深く刻みこんでいる。群生するブナやミズナラの根元を清冽な渓流が洗う。もうここで十分、福井県に下る必要なんてないよ、そんな気持ちにさせてくれる、明るく清澄な峠である。

写真:ウソ越え峠から望む冠山

2008年11月26日

●雪の天狗山

11月も下旬となり、岐阜県山間部ではいよいよ冬の足音が近づいてきました。
写真は、先週末、揖斐川町の藤橋と坂内にまたがる天狗山を横山ダム越しに写したものです。
路面に雪はありませんでしたが、天狗山の山頂付近はもちろん、日陰にもあちこちに雪が残っていました。

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天狗山は標高1100mほど、山頂部はチャートの岩峰になっていて、こうして雪が積もるとなかなか立派な姿となります。
天狗山に限らず、岐阜県と福井県境に聳える山々は、能郷白山や冠山をはじめとして、ほとんどがその山頂付近はチャートの岩峰です。

このあたりは「隆起準平原」と呼ばれる地形が特徴となっています。
大昔、このあたりに聳えていた高い山々が長年の浸蝕で削られて低くなり、準平原と呼ばれる平原状の
地形となっていたのが、その後、ふたたび隆起が始まって現在のような1000mを超える山々になりました。
それぞれの山の山頂付近にあるチャートの岩峰は、かつて平原状に低くなっていた頃、岩体が硬いために浸蝕から逃れて残っていたそれ以前の高峰の山頂です。
そうしたチャートの岩峰が、その後の隆起によってふたたび押し上げられ、現在の山頂付近の地形を形成しているのです。チャートの岩峰は、準平原となる以前の山々の山頂だったわけなのですね。
その証拠に、チャートの山頂を持つ山にはどれも、山頂から少し下ったあたりに「平(だいら)」と呼ばれる平坦な地形があります。大昔には、この平坦な地形が地表面だったのです。
この平坦地形のことを「隆起準平原」と呼んでいます。

現在の揖斐山地は、日本でもっとも隆起が盛んな地域であると同時に浸蝕が盛んなエリアでもあります。
今から数千年後、岐阜・福井県境の山々がどのような姿になってゆくのか、想像してみると楽しいものです。

2009年05月03日

●さざれ石を訪ねる

日本人なら誰でも知っている「君が代」。
国歌として適当かどうかはとりあえずおいて、歌詞に出てくる「さざれ石」が、実は私の勤務先である揖斐川町にあります。

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写真の巨岩が「さざれ石」。
場所は、揖斐川町春日笹又という山奥です。
山奥とはいえ、車ですぐ近くまで行くことができ、一帯は「さざれ石公園」として整備されています。

この巨岩の正体は、たくさんの石が、このあたりに多い石灰岩によって固まったものです。
石灰岩は雨水によって容易に溶けます。そのために鍾乳洞をはじめとするさまざまな溶食地形が形成されるわけですが、液状になった石灰岩がたくさんの小石をセメントのように固めたものが「さざれ石」というわけです。

「さざれ石」にはしめ縄が張られ、国旗が掲揚されていますが、実はそれほど珍しいものではなく、詳しく観察すると近くには同様の岩石がいくつも見つかります。

私は、学芸員資格を地学と生物学で取得した関係上、鉱物や地形には興味があって、時折、山奥へ地質や鉱物の探検に出かけます。
「さざれ石」のある旧春日村は、現在でもドロマイト鉱山が稼働するなど、地学的には興味深い地域です。
鍾乳洞がないか探しているのですが、今のところは見つかっていません。小規模の鍾乳洞はいくつもありそうなのですが。

2009年05月05日

●揖斐祭り

連休中は、ずっと揖斐祭りの取材でした。
揖斐祭りは、揖斐川町にある三輪神社の祭礼です。
三輪神社は大物主大神を祭神とし、神武天皇の御世に創建されたと伝えられる古い神社です。
揖斐祭りは毎年、5月始めに行われ、御本社3基の大神輿と10基の子供神輿が町内を練り歩き、子ども歌舞伎を奉納する5輌の山車が一日3回の奉納歌舞伎を行いながら町内を巡行します。
祭りが現在の形になったのは、今から300年ほど前であることが現存する絵巻物でわかっており、かなり古い祭りであると考えられています。

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祭りといえば、威勢の良いお神輿や屋台がとかく注目されがちですが、祭りの語源は「まつろう」つまり神様とともにあるということです。
ですから、お神輿をはじめとするあらゆる祭礼行事には必ず神事が伴っており、ふだんは目に見えないそうした神事も含めて祭りが成り立っています。

揖斐川町では、町内の祭りや伝統芸能をあらためて調査しなおし、その起源や変遷を研究・記録する事業を行っていることから、町内最大の祭礼である揖斐祭りでも今年から予備的な調査を開始、学芸員である私が主担当をしているというわけなのです。

2日から5日まで祭りは続き、4日、5日は早朝から深夜まで祭礼の様子を動画とスティル画像で撮影しました。
祭りの会場には車を乗り入れることができませんので、役場に車を置いて行動はすべて徒歩。
足が棒になりましたが、祭りの全貌をとりあえずつかむことができ、来年度の調査に向けてのステップになりました。

写真:三輪神社拝殿

2009年05月06日

●揖斐祭り2「子ども歌舞伎」

揖斐祭りで特徴的な祭事のひとつに、子供たちが演じる「子ども歌舞伎」があげられます。
揖斐川町三輪地区にある5つの町それぞれが所有する5輌の山車に設えた舞台で、小学生の子どもたちが本格的な奉納歌舞伎を演じるものです。

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今年の演目は「恋女房染分手綱・重の井子別れの場」でした。
それまで厳しい練習をしてきた8人の子どもたちは、5月2日から5日まで一日三回の披露を行ないます。
一回の披露は約1時間。台詞も節回しも所作も間違えることは許されません。体力的にも非常に厳しいにもかかわらず、まったく破綻なく今年の披露を終えることができました。

子ども歌舞伎は、三輪地区の5町が順番で担当します。
児童数の減少に伴い、最近では三輪地区以外の町内から出演者を公募していますが、少子化はとどまることを知らず、将来的には揖斐川町外からも出演者を募ることになるかもしれません。

私は東京の新興住宅街で育ちましたから、地区をあげての祭りや行事に積極的に参加した経験がありません。
そうした視点から見ると、幼い頃から伝統ある祭りに参加できる揖斐川町の子どもたちは幸せだなあと思います。
もちろん練習は厳しいですが、大人になってから貴重な経験として思い出すことができるはずです。

人間同士、あるいは伝統風土との関係がどんどん希薄になっていく現在、都会にはない農山村地域の祭りや風習が再評価され、都会から田舎へと若者が移動しはじめる胎動が、そろそろ始まるのではないか、田舎に住んで16年、最近はそんな予感を感じています。

2009年05月08日

●揖斐祭り3「曳き揃え」

揖斐祭りで、子ども歌舞伎が行われる山車を「芸やま」といいます。
芸やまは揖斐川町三輪の5町がそれぞれ管理しており、毎年順に歌舞伎披露を行っていきます。
写真でおわかりのように大変に大きく立派な山車で、ふだんは蔵に保管されており、祭りの日になると大勢で曳き出すわけです。

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4日は、この日最終の歌舞伎披露が終了してから、それぞれの町が所有する5輌の芸やまが本町通りに並ぶ「曳き揃え」が行われました。
芸やまは非常に大きいため、時には電線を吊り上げたりお店の看板や街灯の向きを一時的に変えたりしながらゆっくりと進みます。
提灯を灯した豪奢な芸やまが5輌、揃ったさまは幻想的な光景です。

5輌が揃うと、芸やまはそれぞれの町の蔵へと戻ってゆきます。
木の輪を軋ませながらゆっくりと芸やまが蔵へと戻ってゆくさまは、まさに祭りの終わりを惜しむかのようです。

2009年05月14日

●揖斐城跡を訪ねる

先日、揖斐川町三輪にある揖斐城跡を探索してきました。
揖斐城は、守護大名、土岐氏の流れを汲む揖斐氏の居城で、城台山の尾根筋に築かれた典型的な山城です。
揖斐氏は約200年間、揖斐の地を治め、六代光親の代に、斉藤道三に滅ぼされました。

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城跡への登り口はいくつかありますが、今回は三輪神社から登りました。
途中、北アルプス槍ヶ岳を開山した播隆上人が開基した一心寺を経て、白山神社を過ぎると登り口から40分ほどで南の丸跡に到着します。
南の丸から少し登ると本丸跡。さらに二の丸跡、三の丸跡、出丸(太鼓櫓)へと続きます。
木が茂ってはいますが、曲輪跡や堀は長い年月を経ている割りには非常に鮮明に残っていて、中世の山城の姿を髣髴とさせてくれます。
本丸の直下には井戸があり、今でも水が溜まっています。この城で唯一の水源です。
当時の山城はほとんどがそうですが、揖斐氏も通常は麓の城下に居住し、戦のときだけ城にこもりました。

気持ちの良いハイキングコースですから、緑のまぶしいこの季節、三輪神社の参拝・見学と揖斐城跡探訪をセットにして揖斐の地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

2009年05月27日

●林間の古社を訪ねる

快晴の午後、自宅から自転車で30分ほどの山裾を訪ねました。
野古墳群にほど近いこのあたりは、大野町が最近になって整備したハイキングコースとなっており、古墳あり古社ありの歴史を感じさせる里山です。

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自転車を停めて明るい林の中を歩くうちに「山の神」という道標を見つけました。
木漏れ日に埋もれるように小さな社が鎮座し、かたわらには苔むした石像が何体も並んでいます。
「布賀利神社跡」と書かれた石柱が立っていましたから、社の中はからっぽなのかもしれません。
それでも、周囲には神寂びた雰囲気が漂い、心の奥底まで木漏れ日が降り注ぐような静けさを感じながら、しばらくその場に佇んでいました。
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後日、布賀利神社の由来を調べてみると、天照大神の流れを汲む彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を祀っており、天暦年間(947年~956年)の美濃国神名記帳にも記されている有数の古社ということでした。

山の中を歩いていて、こうした小さな古社を見つけると、訳もなく嬉しくなってしまいます。

写真:布賀利神社跡地と石像

2009年07月12日

●旧徳山村の民家

私の現在の職場である揖斐川歴史民俗資料館の敷地にある茅葺の民家です。
もともとは旧徳山村戸入の庄屋さんでした。
私は民家は専門外だったのですが、旧藤橋村勤務時代から、藤橋歴史民俗資料館の茅葺民家4棟の葺き替えを行ったりするうち、いつのまにか茅葺民家と縁が深くなってしまい、揖斐川歴史民俗資料館の徳山民家も修繕や管理を担当するようになってしまいました。

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ひとくちに茅葺屋根といっても、実は屋根材や葺き方は地域によってさまざまです。
山萱(ススキ)が採れる地方では山萱で葺き、穀倉地帯では稲藁で葺きます。
琵琶湖沿岸では湿地で豊富に採れるヨシを使用します。
つまり、その地域でいちばん簡単に調達できる材料で屋根を葺いたわけです。

藤橋や徳山といった揖斐谷では、山に「カヤバ」を作っておき、いつでも山萱を調達できるようにしてありました。
屋根の葺き替えは、およそ30年~50年ごとに行い、その間はこまめに挿し萱(傷んだ箇所に萱を補充すること)を行って維持しました。
いよいよ葺き替えとなると、ムラ総出のたいへんな作業となりました。

夏は涼しく冬は暖かい萱屋根でしたが、最大の欠点は火災に弱いということでした。
徳山では、大火が相次いだため、山間地としては早い時期にほとんどの集落で萱屋根からトタン屋根に変わりました。
その意味で、揖斐川歴史民俗資料館にある築200年余の茅葺民家は貴重な存在です。
今後も、いろいろと勉強しながら守ってゆかなければと思っています。

2010年04月30日

●揖斐祭りの取材

私の勤務する揖斐川町では、5月の連休中に「揖斐祭り」という大きなお祭りがあります。
今年度は、揖斐祭りの全容を映像として記録しDVDを作成しようという事業が計画されており、私がその担当者となっています。

昨年も揖斐祭りの準備から終了まで参加しました。
本年度の本番に備えて、祭りの全貌をあらかじめ把握しておくためです。
今年は専門の業者さんに撮影していただいて、その映像を編集してDVD化するわけですが、業者さんはお祭りに参加するのは初めてですから、担当者の私がいちいち撮影の指示をしなければなりません。
そのために、昨年、お祭りの全ての行事をあらかじめ頭に入れておいたというわけです。

今年の撮影はすでに始まっています。
すでに祭りの中で行われる「子供歌舞伎」の練習風景や街並みの風景などの撮影を行いました。
今日は、昼間は街並みや神社の景観を撮影し、夕方から夜にかけて子供歌舞伎の最終練習風景を撮る予定です。

祭りの本番は、5月の4日・5日。
この両日は、朝7時30分から真夜中まで貼りつきで撮影です。
一番心配していた天候は、何とか祭りの期間中は良いみたいなので、何とかがんばって良い映像を撮りたいなあと思っています。
失敗しても撮り直しができないのがコワイところです・・・。

昨年の揖斐祭りのようす、このブログの「郷土の地誌」、昨年の5月に3回に分けて掲載しています。
よろしければご覧いただき、興味のある方はぜひお越し下さい。

2010年05月04日

●揖斐まつりが始まりました

今日から揖斐まつりが始まりました。
先日も書いたとおり、300年の伝統をもつ揖斐まつりを映像記録としてDVDに残す事業を私が担当することになり、4月中から準備や子供歌舞伎の練習風景などを撮影してきたのですが、いよいよ今日、明日と祭りの本番がやってきたわけです。

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今日は午前中から30度の暑さとなりました。
朝、8時に三輪神社入りして業者と撮影の打ち合わせ。
9時30分から拝殿で大祭神事が始まりました。
正午からは、旧三輪町内にある5つの町が持つ芸やま(いわゆる山車です)が、三輪神社境内へ1輌ずつ引き入れられます。
巨大で重い芸やまを、各町の人たちがえいや、えいやと引っ張ってくるのです。
神社境内に5輌の芸やまが揃うと、その上で担当町の子供たちが演じる子供歌舞伎が奉納されます。
今年は暑くて役者の子供たちの体力が心配されましたが、一日3回行なわれた公演は日頃の練習の成果が発揮されて素晴らしいものでした。
化粧をして衣装をつけた子供たちが、歌舞伎の難しい台詞回しを本物の役者顔負けにこなすようすに観客は拍手喝采です。

夜になると、ますます人出が増えてきました。
19時30分からの公演は、薄暗い中、提灯を灯して神秘的な雰囲気です。
大勢の観客は、愛らしい子供たちの演技に盛んな拍手を送っていました。

明日は本楽。
稚児役者練込みや3回の子供歌舞伎に加え、今日はなかった神輿の練りまわしや稚児舞奉納などが行なわれます。
夜は5輌の芸やまが本町通りに勢ぞろいし、幻想的な祭りの終わりを演出します。
お時間のある方は、ぜひ揖斐まつりにお越し下さい。

2010年05月06日

●すばらしかった子供歌舞伎

揖斐まつりが終わりました。
祭りの期間中、ずっと天候に恵まれ、いくつかのトラブルもクリアし、取材の仕事も順調に進みました。

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揖斐まつりの目玉のひとつに「子供歌舞伎」があります。
旧三輪町内の各町が持っている「芸やま」の上で、本物の歌舞伎役者さながらに扮した子供たちが歌舞伎の公演を行うのです。
今年の演目は「碁太平記白石噺 新吉原揚屋の場」でした。
吉原の遊郭、大黒屋の花魁宮城野のもとを、代官に無礼打ちにされた父の敵を取るべく、幼い頃に生き別れた妹の信夫(しのぶ)が奉公人として訪れます。
話を聞いた宮城野は、姉妹であだ討ちをするために姉妹揃っての駆け落ちを決意するのですが、その会話を大黒屋の経営者である惣六に聴かれてしまいます。
通常であれば遊郭から駆け落ちすることなど許されるはずもないのですが、義理人情に厚い惣六、「曽我物語」にならって姉妹の駆け落ちを許可する・・・という人情噺です。

登場する子供たちは小学校2年生から6年生まで6人。
難しい台詞と所作を懸命に練習した成果が実り、約1時間の公演はすばらしいものでした。
今年は例年にない暑さで、一日3回の公演を行う子供たちの体調が心配されましたが、疲れを感じさせない演技に、観客から盛んな拍手が送られていました。

今回、私は取材のために練習風景から見てきたこともあって余計に思い入れが強く、ひときわ心に残った子供歌舞伎でした。


2010年06月26日

●幻の土倉鉱山第一選鉱所遺構

岐阜県揖斐川町坂内川上から八草トンネルを抜け、少し滋賀県側に下った所に、土倉鉱山の遺構が残っています。
城砦とも見紛う壮大な選鉱所跡は廃墟ファンならずとも多くの人の関心を呼ぶに十分な迫力を持っていますが、この遺構が実は第二選鉱所であり、林道を遡った奥に古い第一選鉱所があることを知る人はほとんどいません。

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土倉鉱山は、明治40年に岐阜県安八郡の中嶋善十郎が鉱石の露頭を発見したことが発端で採掘がはじまり、硫化鉄鉱をはじめ、金、銀、銅、亜鉛など高品位の鉱物が採掘されました。
採掘された鉱物は、空中索道を使用して木ノ本駅まで輸送されました。土倉谷の奥に巨大な選鉱所とともに従業員の住宅や学校の分教場も建設されましたが、冬期の豪雪が凄まじいことから、昭和15年に現在の第二選鉱所が建設され、従業員や分教場、空中索道も移転しました。
やがて、昭和40年、鉱山は閉山され、土倉鉱山は51年に及ぶ歴史を閉じたのです。

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ここまで、土倉鉱山の歴史をおさらいしました。
で、問題の第一選鉱所ですが、第二選鉱所から土倉谷林道を数キロ遡った場所にひっそりと残っています。
第二選鉱所を右手に見、しばらく林道を上ると、すぐに第二通洞抗が真っ暗な口を開けています。
そこから林道は狭い悪路となりますが、私は200CCのバイクで調査に行きましたので、まったく困難は感じませんでした。
しばらく進むと、右手に小さな木の橋がかかっています。
橋を渡ると、そこが第一選鉱所跡。
小広い草原状の平地で、真ん中辺りに2箇所、巨大な竪穴がぽっかりと落とし穴のように開いています。
覗きこむと地底のトンネル内を大量の水が流れており、柵で囲われているものの、落下すれば生還の可能性はありません。

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左手には、一見すると岩山のような第一選鉱所が聳えています。
全面に草木が繁茂しており、らピュタのような第二選鉱所とは異なり、マヤの遺跡のイメージです。
あまりに繁茂した草木のために、第二選鉱所のように上って調べることはできません。
ほとんどの遺構は草木に埋もれており、選鉱所らしさが伺えるのは、写真に示したようにほんの僅かです。
選鉱所の奥には第一通洞抗があるはずですが、調査の際には鉱山の詳細な歴史や地形を知らなかったので、残念ながら未踏です。
また、住宅の跡らしいものも気づきませんでした。
機会を見て、再度、調査したい場所ですが、危険ですから、必ず複数人で探索していただきたいと思います。
また、このレポートは10年近く前の調査によるものですから、現在では状況が変わっている可能性があることをご承知おき下さい。