2006年07月21日

●蛍と教育

今年も、家族で蛍見物に出かけた。自宅から車で三十分ほどの小さな川だ。山あいなので、晴れた晩には、地上に蛍、空には満天の星が見えるという贅沢な場所である。
当夜も、初夏の星座に蛍の光が群れ飛ぶ景観に、しばし陶然としたひとときを過ごしたのであるが、そんな光景をじっと見つめていた中一の娘が呟いた言葉に胸をつかれた。
「日本中どこでも、蛍や星が見られるようになれば、簡単に人を殺しちゃうような子供はいなくなるはずなのにね。外は街灯やネオンでピカピカ、家の中ではテレビやパソコン、これじゃ誰でもおかしくなるよ。夜は静かで暗いのが自然なのに」
もっとも心に栄養を与えるべき年齢に、過度の刺激を与えられ続ければ、子供の心が壊れてゆくのは当然のことだ。
子供たちに必要なのは、インターネットやテレビゲームではない。青空や緑の草木、夜を彩る蛍や星の輝きといった、静かで穏やかな自然なのである。
百万編の教育論議を重ねるより、自然の風と光の中で子供たちの心を解放することこそが、何よりも急務なのではないだろうか。
 
(2004年7月16日 朝日新聞)

2006年08月21日

●公開天文施設の現状と意義に関する私的考察

五島プラネタリウムの閉館前後から、各地でプラネタリウムや天文台の休止がアナウンスされ、公開天文施設の今後に大きな翳りが見え始めています。大きく報道されるのは大型館ばかりですが、マスコミ等で報道されないまま、全国で多くの施設が存亡の危機にさらされています。

私が勤務する西美濃プラネタリウム・西美濃天文台は、開館以来50万人の方に利用していただき、小規模なりに地域に貢献してきたと自負していますが、オープンしてから十余年が過ぎた今、当初は五人いた職員は二人に減らされ、予算の大幅削減はもとより、開館日数も半減されてしまいました。かつて暗かった施設周辺は、徳山ダム工事によってさまざまな灯りが林立し、ダム完成までの一時的なこととはいえ、以前とは比べものにならないほど明るくなってしまっています。職員は集客とコストダウンに必死に取り組んでいるものの、努力は限界に近づいています。

当館に限らず、バブル期、全国に雨後の筍のように生まれた天文施設の多くが運営に行き詰まっており、特に小規模館ほどその傾向は顕著です。予算もなく休みも取れず、もちろん事業も行えず、こんな状態ならば思い切って閉館になってしまった方が楽、小規模館の担当者からはこんな声も聞かれるほどです。

それでも、最近になってようやく、公開天文施設が連携してこうした危機に対処してゆこうといいう気運も生まれてきました。ただ、そうした運動を推進しているのは、実のところ危機にはほど遠い恵まれた大型館ばかりであり、小規模館は連携のための会合に参加することもままならず、意見や提案を述べる時間的余裕すらないまま、日々の業務に追いまくられているのが現実です。本当に追いつめられている施設は蚊帳の外に置かれ、余裕のある大型館だけが大所高所からの議論を楽しんでいるように思えてなりません。

私は、自らの施設の存亡に汲々としてはいないつもりです。税金を投入した施設維持が困難であれば、費用対効果の面から閉館という選択肢もあり得るでしょう。ただ、天文施設に期待されている本来の役割を、社会も、施設で働く職員自身も忘れているのではないかと感じます。

宇宙を知ることは、客観的な世界観を養い、地球環境問題への正しい認識やバランスのとれた人格形成にも不可欠です。プラネタリウムは流行のアニメ映画を上映するだけの視覚的遊園地であってはいけませんし、公開天文台は、一部の天文マニアや研究者の自己満足の場であってはいけません。宇宙とは何か、地球とは何か、人類とは何か、生きる意味とは何かといったことを、来館者とともに考えていく哲学を持った場所でなければならないと思います。

観測も研究も大切ですし、いわゆる「天文普及」も大事でしょう。しかし、何のために観測をし、研究をし、普及活動をするのかといった根本を、私たち公開天文施設の職員は、もう一度、考えてみる必要があるのではないかと思うのです。
  

2007年01月26日

●論説「身近な生き物を守りたい」

 東京から、緑豊かな山村に移住して十年になる。十年経てば、さまざまなことが変わるものだが、何よりも大きな変化は、身の回りから生き物が消えてしまったことである。
 移住してきた当初は、庭に蛍が迷いこみ、初夏ともなればカエルの大合唱が聞こえ、雨の後には、サワガニが道路を渡っていたものだった。そうした小さな生き物たちは、年を追うごとに少なくなり、気づいてみれば、蛍はもとより、あれほど賑やかだったカエルの声も聞こえなくなってしまっていたのである。
 オタマジャクシやサワガニが群れていた畦や沢は、圃場整備と砂防工事によってコンクリートの水路となり、水田には繰り返し農薬が散布される。蛍の乱舞していた湿原は埋め立てられて駐車場となり、路傍の草にはこれでもかとばかりに除草剤が撒かれる。
 恐らくあと十年もしないうちに、カエルをはじめとする水辺の生き物の多くが絶滅危惧種になるだろう。バッタやカマキリといった身近な昆虫も、同様の運命をたどることは間違いない。
 今ならまだ引き返せる。人間の身勝手で、これ以上、小さな生命を殺してはいけない。

(2003年 朝日新聞掲載)

2007年05月06日

●屋外照明は、今、見直すべきだ

 環境省による夜空の「明るさ」調べによれば、調査を始めた88年以来、今年1月が最も明るかった、と7日の本紙が報じていた。
 その主要原因とされる屋外照明の増加は、歯止めがかかりにくいという点で、公共事業によく似ている。
 多くの公共事業が住民の安全確保のためという名目を掲げているのと同様に、夜間の治安確保と称して次々に新設される照明は、一度設置されれば二度と撤去されることがない。誰も通らない山間部の道路や、夜間は閉館している公共施設の駐車場に設置されているものでも、である。
 夜毎点灯される照明用のエネルギーは膨大で、地球温暖化にも大きな影響を及ぼしているはずだ。また、設置主体の国や地方自治体が支払う電気代は、当然、税金で賄われている。
 その意味で、屋外照明についても、公共事業と同じく費用対効果を考えた適正なチェックが必要であると考える。

(2002年7月 朝日新聞掲載)

2007年05月15日

●若者に未来の選択権を与えたい

新聞報道によれば、地球温暖化は加速しており、ここ数十年のうちにも大規模な気候変動、食料危機など深刻な被害が予想されるとのことである。遠い未来のことだと考えていた温暖化の被害が現実味を帯びてくるにつれ、人類の歴史は、私たちの子供、孫の世代で絶えてしまうのではないかと考えてしまう。
 温暖化を進行させた責任は、環境や生態系への負荷を無視して営利や効率のみを追求してきた私たち大人にあることはもちろんだが、営利効率主義から脱け出せない大人だけが議論していても、環境適応型の社会制度を創り上げていくことは難しい。
私は、今こそ、古い価値観や利害にとらわれない若者や子供の世代が、社会を変える力を発揮する時だと思う。被選挙年齢の引き下げや、政府の各種諮問機関へ子供を含めた若い世代を積極的に参加させるなど、若者が直接的に環境政策に関わることのできる社会制度を整えたい。直接に温暖化の被害を受ける彼らに自分たちの未来を自ら変えてゆく機会を与えたい。そうしなければ、今の大人は、彼らから恨まれることになるだろう。

(2007年5月 朝日新聞掲載)

2007年06月13日

●用水路に多自然型工法採用を

 田植えの季節を迎え、どの用水路にも水がこんこんと流れている。だが、豊かな水の中に生き物の姿はない。コンクリートで直線化され、必要な時期以外水を通さない用水路には、生き物が住む場所がないのである。
 今、メダカやドジョウといった身近な魚が絶滅危惧種になっているという。かつてこうした魚は、小川や用水路を住みかとしていた。今のようにコンクリートで被われず、一年中水のとぎれることがなかった水路で人間と共存して生きてきたのである。田への水供給機能のみを追求した現代の水路では、こうした生き物が絶滅するのは当然の結果であろう。

yousuifish1.jpg

 近年、河川の三面張りや直線化が反省され、生物が住みやすく、洪水にも対応でき、見た目にも潤いがあるよう改良する工事が行われるようになってきた。用水路にしても、現代の土木技術を駆使すれば、水供給と生物多様性を両立させることは十分可能なはずである。
 心安らぐ農村風景を取り戻すためにも、全国の用水路を多自然型に改良することを「春の小川復活事業」として農水省に提案したい。「美しい国」づくりにも直結する事業ではないだろうか。

写真:自宅近くの古い用水路に生息する魚。泥が積もり水草が生えている用水路には、生物がもどってきます。

(2007年6月 朝日新聞掲載)

2007年07月31日

●アイドリングの法規制を

 夏場になると目につくのが、路上や駐車場で、長時間アイドリング中の車だ。
すぐに発進するのかと車内を見れば、寝ている人あり、小さな子どもだけが残されて、親の姿はどこにも見えなかったりする。
 エネルギーの過剰消費と地球温暖化、大気汚染が叫ばれる中、こうした無用のアイドリングが一向に減らないのはどうしたことだろうか。アイドリング防止の呼びかけは、たびたび目にするが、実効をともなっているかといえば、甚だ疑問であると言わざるを得ないのではないかと思う。
 ドライバー個々の自覚に委ねることが最も望ましいことは承知しているが、社会的緊急性に鑑み、無用のアイドリングに罰則を科すなど、法的な規制を行なう時期にきているのではあるまいか。
 スピード違反や駐車違反のような安全上の問題でないことから、道路交通関係の法律を適用するのは難しいかもしれない。それならば、環境関係の法律を適用するなどして、早急に対応してほしい。
 たびたび報道される、駐車中の車内での子どもの熱射病死防止にも直結するものと思う。

(2001年5月 朝日新聞掲載)

*地球温暖化が緊急の問題になっているにもかかわらず、そして燃料価格が高騰しているにもかかわらず、一向に減らない無駄なアイドリング。
かなり以前に書いた文章ですが、未だに法的な規制ができていません。アイドリングだけでなく、日本は温暖化対策に関する目標数値を示すこともできずにいます。
これで「美しい国」などと言っているのですから呆れてしまいますね。

2007年11月26日

●熊と人との共生を

 毎年、秋になると繰り返し報道されるのが、熊の出没である。特に昨年は件数が多く、一説によれば昨年だけで全生息数の三分の二近い熊が駆除されたという。今年も秋が深まれば、また熊騒動が繰り返されるのだろう。
 人と熊との緩衝地帯であった里山の荒廃、人間が放置した生ゴミを求めて熊が人里へ降りてくることなどが熊出没の要因と考えられているが、繰り返される熊騒動に国が何の対策もとらないのは不思議なことだ。人や作物の被害防止と並行して、個体数の急速な減少が危惧されるこの動物を保護する方策を早急に立案しなければならないはずなのに、正確な個体数さえ把握されていないのだ。
 地方への権限委譲が進んでいるが、野生動物保護は国土全体の実情を把握できる国が管轄すべきことがらであろう。国は、熊と人が共生するためのガイドラインを早急に策定してほしい。このまま駆除を続けていけば、数年を経ずして貴重な大型獣がわが国から姿を消すことになってしまう。野生動物と人が共生できる優しい国を作ることこそが、これからのわが国が目指す方向ではないだろうか。

(2007年10月 朝日新聞掲載)

2007年12月18日

●星空を見上げよう

 星空の美しい季節になった。仕事の帰りなど、つい何分間も夜空を見上げてしまう。そして、星までの距離に思いを巡らす。

M42.jpg

 冬の代表的な星座であるオリオン座の1等星、ベテルギウスまではおよそ500光年。今晩見えるベテルギウスの光は、500年前の姿を見ていることになる。他の星もみな、それぞれ異なった距離にあり、地球はそうした無数の星ぼしのなかにポツンと浮かんでいるのである。
 星は、私たちが見ることのできるもっとも遠い自然だ。しかも、晴れてさえいれば誰でもどこでも無料で、地球を囲む宇宙の姿を思い巡らすことができる。そう思って見れば、夜毎の星空は何と神秘なことだろう。
 テレビやゲームに浸る時間を少しだけ割いて夜空を見上げてほしい。地球の小ささ、そして、そんな地球の恵みを受けて私たちが生かされていることに誰もが気づくに違いない。

写真:オリオン座大星雲M42(60cmF10反射直焦点)
(2007年1月 中日新聞掲載)

2007年12月20日

●小学校の理科専門教員配置

政府の教育再生会議最終案によれば、近年の学力低下対策の一環として、小学校への理科専門教員配置を盛りこむそうです。
学力低下は「ゆとり教育」の弊害であるとも指摘しています。
ようやく理科専門教員を配置する必要性に気づいたのかと呆れると同時に、「ゆとり教育」を提唱・推進した政府自身が「ゆとり教育」こそ学力低下の原因であると決めつける定見のなさにがっくりきました。
結局、学校の先生や親、何よりも子どもたち自身が政府のあやふやな方針に右往左往させられただけです。

理科教育の重要性がようやく見直されたのは嬉しいことですが、たとえば天文学を含む地学関連の授業は、小学校、中学校、高校と、ここ10年間、一貫して削減され続けてきました。
その理由はいくつかありますが「星の観察は夜間なので指導が困難」「天文学に詳しい教師がいない」また「フィールドで実習を伴う地学の授業は時間やフィールドの確保が困難」「詳しい教師がいない」などが主なものです。
理科専門教員が確保され、理科の授業に欠かせない実験やフィールド実習がまともに行われるようになれば大歓迎です。
しかし、夜間には授業が行えない、フィールドに出る時間や場所が確保できない」といった問題は、たとえ専門教員が確保できても解決できず、かえって専門教員の士気を阻喪させる結果に終わるのではないかという危惧を拭いきれません。

また「ゆとり教育」が学力低下の原因という決めつけはあまりに短絡的です。
教育は、ただ詰めこめば良いというものではありません。
身の回りのことに疑問を持ち、自然や人文のシステムを論理や情感に基づいて考察する心の余裕がなければ、単に知識を入力しただけに終わってしまいます。
本来「ゆとり教育」の目的は「考えさせる」ことにあったはずなのですが、やる気のある教師ほど授業以外の雑事に追われ、おざなりに時間を消化するだけで本来の目的に沿った教育ができたとは言い難かったのが「ゆとり教育」の実態でした。
子どもたち、そして教師が「楽しくない・無理矢理やらされている」教育が、血肉となるはずはありません。

私は、公開天文施設に勤務するという仕事柄、星空や宇宙に興味を持つたくさんの方に接しますが、子どもも大人も、天文学に非常に純粋な興味・好奇心を抱いています。
これは天文学だけではなく、他の理科教育分野でも同様です。理科への興味関心は決して低くないのです。

理科教育は、何よりも実物に接しなければ興味関心が喚起されませんし、教育効果も上がりません。
基本的に座学のみで行われてきたわが国の理科教育を、フィールド中心に変革しないことには、たとえ専門教員が採用されても教育効果は得られないと思います。
教育再生会議は、ただ専門教員を採用するという小手先の手法ではなく、わが国の理科教育のポリシーそのものを見直す姿勢を見せなければなりません。
しかし、「ゆとり教育」こそが学力低下の原因だった、などといういかにも表面的な見解を恥ずかしげもなく述べる政府と教育再生会議に、そうしたポリシーが果たして本当にあるのだろうかと疑問を抱かざるを得ないのです。

2007年12月22日

●鳥獣駆除法にふたつの問題点

 農作物を荒らすイノシシ、シカ、サルなどへの対策を進め、自衛隊も協力できる「鳥獣被害防止特措法」が成立した。成果を期待する農村が多く、自衛隊の平和利用と思える法だが、ふたつの大きな問題点を含んでいる。
 一点は、自然保護の視点である。過疎化にともない、鳥獣による被害は確かに拡大している。だが、生息数や生息域を調査しないまま組織的駆除をすれば、生物多様性の維持や生態系保全に大きな影響を与える。
 また、鳥獣駆除の権限が都道府県から市町村に移るが、自然環境や生態系に関する専門知識を持つ職員がいる自治体はほとんどない。結果として、地域の種を絶滅に追い込む可能性が高い。
 もう一点は、鳥獣駆除が自衛隊の本来任務なのかということだ。災害出動ならいざ知らず、鳥獣を捕らえ、あるいは殺す任務に、国防という重要な使命を担う自衛官が誇りをもてるだろうか。
 こう考えると、この法は組織的に生態系を破壊し、自衛官の士気を阻喪させるものと言わざるを得ない。

(2007年12月 朝日新聞掲載)

2007年12月30日

●名鉄揖斐線廃止後の現状

 大野町内を通っていた名鉄揖斐線が廃止されて2年になる。営業的には赤字だったものの、過疎地のローカル線とは異なり、通学・通勤以外にも多くの旅客需用を擁する都市型の路線であった。そうした路線を廃止することに当初から危惧の念が持たれていたが、廃止から2年が過ぎ、地元では廃止は早計だったのではないかという声が次第に大きくなってきているように思われる。

meitetu1.jpg

 最も直接的な影響を被ったのが高校生だった。廃線にあたって、地元自治体では岐阜・大垣方面へ直通するバス路線を整備したが、学校へ着く時刻が早すぎる、あるいは渋滞で発着時刻が読めないなど、結局は保護者が車で送迎、あるいは40分以上もかけて自転車通学するといった方法を取らざるをえなくなった例が多い。私の娘もそうである。
 車を運転できない高齢者は移動の手段を失い、岐阜の柳ヶ瀬をはじめ各駅前の商店は寂れてしまった。電車の利用者が車に流れたために道路交通量は増加し、温暖化に拍車をかけている。
 企業の論理から言えば赤字線廃止は有効な選択肢だが、地域インフラの維持、あるいは地球環境保護という視点から考えると、収支だけで安易に鉄道を廃止してはならないはずだ。名鉄揖斐線が廃止された今、地元利用者としてそのことを痛感している。

写真:先に廃止された揖斐線・谷汲線とのジャンクションだった黒野駅
(2007年7月「鉄道ジャーナル」誌掲載)

2008年01月02日

●年頭論説「2008年日本はどうなる」

明けましておめでとうございます。

2008年、今年はどのような年になるのでしょうか。
年頭にあたり、社会や経済の情勢も踏まえて今年の予測を・・・。
(のっけから小難しい話題ですみません。いろいろと危機感を募らせているので・・・)

まず、今年最大のキーワードは「環境」になると思われます。
日本が議長国をつとめた京都議定書の第一約束期間が今年から始まります。1990年を基準として、今後5年間で温暖化ガスの排出量を日本は6%削減する義務を履行することになります。
ところが、日本はEU諸国などに比べると温暖化対策に及び腰の感が否めません。温暖化対策は成長を阻害するという経済界の反対が強いためです。
ただ、温暖化対策=環境対策が成長を阻害すると考えているのは先進国ではアメリカと日本だけ。世界の趨勢は、環境が今後、最大のビジネスチャンスをもたらすと考える方向にあります。
世界一の環境技術をもつ日本が本気で温暖化対策に取り組むならば、国際社会の尊敬を集め外交面で非常に有利になるとともに、さまざまな点で行き詰まりを見せている経済面でも活性化の道が開けてきます。
国策として、温暖化対策への抜本的取り組みは避けて通れないところです。
その意味では、今年からの政策決定いかんでわが国の将来が決まると言っても過言ではないと思われます。

tokuyamadam3.jpg

さて、経済面ですが、原油価格は当分、高止まり状態が続くと思われます。投機マネーの行き先が他にない現状、化石燃料に頼るわが国のエネルギー政策を大幅に変更しなければなりません。
低迷する株価ですが、日本企業の業績は好調です。にもかかわらず株価が低迷しているのは、外国人投資家が、日本という国の経済力を基本的に低く評価しているために他なりません。
外国でちょっとした問題が起こるだけであたふたと動揺する政府が信用されていないのです。
先に述べた温暖化問題への取り組みやエネルギー政策で現在のような腰の定まらない状態が続くならば、日本の信用はいっそう低下します。
肥大化する長期債務問題も信用力低下に拍車をかけています。思い切った歳出削減が必要なのですが、今もなお公共事業に頼ろうとする体質を根本から改めなければ歳出削減は不可能です。
温暖化対策の項でも述べたわが国の経済界のどうしようもない考え方の古さ、そして戦前の軍部のような古めかしく因習にとらわれた経済界と利権で密接に結びついている政治をなんとかしなければ、近い将来、国債の暴落、あるいは大幅な格付け低下という、戦慄すべき結果を招来する可能性があります。

格差問題についても、貧富格差、地域格差双方ともに、短期的な解決は無理でしょう。
なぜなら現在の格差問題を生み出したのは、戦後60余年にわたる政策の結果であり、それほど長期にわたった政策のツケを数年で解消することは困難と思われるからです。
国民を享楽という麻薬で痴呆化させ、政権安定と経済振興につとめてきたツケが回ってきたのです。
もちろん、選挙という民主的制度が確立したわが国で、そうした政策を行ってきた政治家を選んできた国民がその責を負うことは言うまでもありません。

幸いというべきか、今年は衆議院の解散総選挙が(たぶん)行なわれるでしょう。
民主党は頼りにならないだとか、自民党も民主党も政策に変わりはないなどとうそぶく人もたくさんいますが、自民党が頼りにならないのは、上述したような、現在のわが国が置かれた危機的状況をみても明らかですし、イデオロギー論をいまさら持ち出すような時代を超越した方はともかく、自由主義の国際社会・経済社会において、それほど毛色の変わった政策など打ち出せるはずはありません。
要諦は「澱んだ水は腐る」ということです。
2大政党が切磋琢磨することで緊張感が生まれます。経団連などの圧力団体との癒着構造もある程度は打破できます。
私は民主党支持ではありませんが、硬直化したわが国の政策と利権構造に楔を打ち込み、先に述べたような刷新的な政策を打ち出さなければ、ありていにいってこの国の将来はないと思えるのです。
抜本的革新のために現在とれる手法は政権交代しかなく、受け皿は民主党しかありません。
私は、総選挙の結果、民主党が政権を取ることを強く望みます。逆説的ですが、そうして初めて、自民党も本来持っているポテンシャルを発揮できるようになるはずです。

「なんだかまっちゃんらしくないことを書いてるなあ」と思われるかもしれませんね。
でも、実は私は経済学部出身なのです。
小泉さんの唱えた「改革」はまやかしに近いものでしたが、今年は本当の改革を、政府・政党・国民一人一人が行わなければ、この国は滅びます。
私も、公私共に「改革」を心に秘めながら今年の歩みを進めていこうと思っています。

天文のことも書こうと思ったんですが・・・。
それはまた近いうちに。

あー、長い文章だ。正月からこんなの読む人いるんだろうか・・・。

写真:日本最大の徳山ダム。莫大な公共事業費を投入したダムの得失は?

2008年01月12日

●温暖化対策こそ国策だ

 今年から京都議定書の第一約束期間が始まる。事実上の環境元年とすべき今年だが、日本政府の対応は鈍く、国際社会の模範になっているとは言い難いのが実情だ。
 日本の温暖化対策が進展しない主要な原因に経済界の反対がある。温暖化対策は成長率の鈍化を招くという主張が政府の足元をふらつかせているのだ。
 だが考えてほしい。日本には世界をリードできる環境技術がある。温暖化をはじめとする環境問題が地球規模で論議される今こそ、良い意味で日本が世界のリーダーシップをとれるまたとない機会だ。のみならず、経済面でも大きなチャンスが訪れようとしている。近い将来、環境ビジネスはますます大きな市場になるだろう。日本が今後も経済立国を目指すのであれば、温暖化対策は大きなビジネスチャンスとなるはずである。
 このように、議長国であり優秀な環境技術を持つ日本が率先して温暖化対策に邁進することは、地球の危機を救うだけでなく、国策としても非常に重要なことである。政府の「迷わない本気の取り組み」を期待したい。

2008年01月17日

●車に乗らずに見える景色

 このところ、「歩いて自転車に乗る」ことを心がけている。公共交通のない勤務先へは車で通わざるを得ないが、自宅近くの買い物やちょっとした所用はできるだけ車を使わない。
 徒歩や自転車の利点は、当然ながら環境に優しいことだ。次に健康に良いこと。もうひとつは「景色が良く見えること」である。歩いたり自転車で走っていると、人間に合っているのはこの程度のペースなのだなと改めて気づく。速度が遅いことに加え、気温や湿度を体で感じることで、車に乗っていては見落としてしまう季節の変化や街角のたたずまいを楽しめる。エンジン音にかき消されてしまう鳥の声や虫の鳴き声といった自然の音を聴くこともできる。
 ガソリンが高騰しているこの頃、車べったりの生活を見直してみよう。きっと新しい発見があるはずだ。

(初出:2008年1月 中日新聞)

2008年01月30日

●議論の噛みあう暫定税率論議を

 道路特定財源の暫定税率を巡る論議がいよいよ大詰めとなってきた。暫定税率を廃止した場合、自民党は道路建設に支障が生じると主張し、民主党はガソリン価格が下げられると主張しているが、両者の議論は根本で噛み合っていないように思われる。

 議論すべき本質は、今後とも高い税率を維持したまま道路を造り続けるのか、それとも道路建設を抑制する方向へ国の政策を転換するのかということだ。道路建設に支障が生じるという自民党の主張は、今後も道路を造り続けるということを前提としたものだし、ガソリン価格が下げられるという民主党の主張には、今後の道路造りをどうするのかという政策が見えてこない。どちらも選挙対策として都合の良い近視眼的主張をしているだけで、国民としては何とも歯がゆい。

 暫定税率部分だけの議論にとどまらず、今後も特定財源として存置するのか、それとも一般財源化を含めた多目的な財源に変えてゆくのか、今後の国づくりを踏まえ、道路財源のあり方そのものに踏みこんだ広汎かつ本質的な論戦を期待したい。

2008年02月12日

●農山村部の道路に「緑の回廊」を

農山村部の道路を走っていると、車にはねられた動物の死体を見ることが多い。動物も哀れだが、はねたドライバーの方もいい気持ちはしないに違いない。
 野生動物が、危険を冒してまで交通量の激しい道路を横断するのには理由がある。道路に囲まれた狭い範囲のみでは、生存に必要なだけの食物を得ることが難しい。たとえ餌に不自由しないとしても、限られた異性としか接触できないために近親交配が進み、いずれは種を保存することができなくなってゆく。個体を維持し種を保存するためには、危険極まりない道路を横断してまで広範囲に行動せざるを得ないのである。
 野生動物が自由に往来でき、かつ不幸な事故を減らすための有効な方策は、動物の移動経路(いわゆる「けものみち」)を精細に調査した上で、けものみちが道路を横断する箇所に動物横断用のトンネルか橋を設けることだ。通路には土を入れ、人や車は通行禁止とする。
 こうした通路を通行するのは哺乳動物だけではない。土と緑のベルトで結ばれていれば、道路や人工物に遮断された細切れの緑地であっても、個体と種の保存に非常に有効であることがわかってきており、こうした「緑の回廊」を整備することによって、爬虫類や昆虫、植物もより広範囲に生活圏を広げることができるはずだ。
 折しも道路特定財源に関する論議が盛んである。不要な道路を造る必要はないし、必要な道路は造らなければならないが、道路整備にあたってはただ建設するのでなく、人にも自然にも優しい道路づくりに留意してほしい。

(初出:2004年7月 中日新聞)一部加筆訂正

2008年03月02日

●娘の受賞論文

 高校1年生の娘が書いた論文が、学内の論文コンクールで優秀賞を受賞しました。
 親の欲目を差し引いても、しっかりした良い文章だと思いますので、ここにupします。


「動物」としての「人類」として 

 私の家では、うさぎを1羽と猫を8匹飼っている。うさぎは小学校で増えすぎたものを引きとってきたのだが、猫たちはいずれも放っておけば今頃は生きていなかったであろう野良猫ばかりである。

 私が小学校を卒業するまで住んでいた村では、無責任に餌だけを与え続ける住民のせいで野良猫たちが見る間に増えていった。その結果、住民に迷惑がかかるということで、村中の至る所に猫獲り用の罠が設置された。なんと愚かで罪深いことだろう。増やすだけ増やし、迷惑だからといって殺す。彼らのせいで、どれだけの罪なき命が殺されるために生まれてきたのだろう。役場に勤めていた父によれば、まだ目も開いていない子猫までもが保健所行きになったという。

 一年間でどれだけの犬猫が保健所に送られるか、ご存知であろうか。
 63万頭である。しかもそのほとんどが里親に引き取られることなく毒殺される。つまり、今、私の家で暮らす猫たちは、あのままあの村に置き去りにしていたら、今、生きている可能性はほとんどなかったのである。

07200020.JPG

 中学生のとき、総合学習の授業で大野町の保健所を訪ねたことがある。そのときも一匹の野良犬が檻に捕らわれていた。保健所の人の話を聞いて、私は衝撃を受けた。町の保健所には設備が備わっていないのでしばらく置いてから大きな施設に移され、そこで殺処分が行われる。しかし町の保健所から処分場に送られるまでに、たったの三日しかないという。もちろん、そんな短期間で里親が見つかるわけもなく・・・おそらくあの犬も助かりはしなかったのだと思う。

 日本という国は先進国と呼ばれるが、動物愛護という視点から見ればまだまだ発展途上国だと思う。
 2005年に動物愛護法が成立する以前は、一部の悪徳ペット業者がひどい動物虐待を行っていたらしい。たとえば、子犬や子猫が育ちすぎたり下痢をすると売れないために餌や水をやらない。病気で助からない犬猫を安楽死させる薬代を惜しんで首を折って殺すなど・・・。さらに売れ残った子犬や子猫をミキサーにかけて、ほかの犬猫の餌にするなどということをしていたようだ。
 現在は法律の改正でペット業者に行政が業務停止命令を出せるようになったり、虐待の罰金上限の引き上げなどによりそこまでひどいものは減ったようだが、完全になくなったとは言い切れない。

 さらに、日本ではペットはペットショップで売っているのが普通だが、欧米の動物愛護先進国ではペットは売らない。ペットショップはあっても、そこではペット用品を売ったりトリマーの仕事が主で、ペットは子犬や子猫が生まれた家からもらうのである。ペット自体を売らなくても、それだけで十分、利益は出せるようだ。

 これらのことからわかるように、日本はまずペットとしての動物に対する考え方を改めなければならないと思う。
「モノ」として扱うのではなく、たとえ子犬や子猫でも生き物として扱うべきだ。私たちの人権が憲法で保障されているように、犬や猫、その他の動物たちにも幸せに生きる権利があるはずだ。

 ペットだけではない。さまざまな実験に使われる小動物、不必要な狩猟により殺される野生動物たち。彼らはいずれも人間の勝手な理由で殺される。人間はいつでも自分勝手だ。小学校やら中学校であれほど「周りの人のことを考えて行動しなさい」と教えられながら、温暖化、自然破壊、それによる生態系の崩壊・・・私たちは常に自分の目先のことしか考えてこなかった。そして、今、そのせいでまさに破滅の危機へと私たちは疾走している。罪なき生き物たちを道連れにして。

 人間は優れた生き物だと思う。しかし、高い知能を持ったからといって生物の代表になったわけではない。人も動物も虫も木も草も、例外なく平等である。人も動物も木も草も、みな同じ高さに立っている。人間の知能をもってすれば、その程度を理解するなどたやすいはずである。それひとつを理解するだけで、動物虐待のみならず様々な環境問題を解決することすら可能かもしれない。今の私たちに必要なのは、「人間」としてではなく「動物」として自らを振り返ることではないだろうか。

 小学校まで育ったあの村では、また野良猫が増え始めているらしい。そしてまた罪のない命が奪われていくのだろう。
 私の拙い文章でも少しでも心を動かしてくれる人がいれば幸いである。たとえ一人でも変わることが、未来を変える力になるのだから。
・・・地球(私たち)の明るい未来を、そして人類(私たち)のせいで命を奪われた動物たちの冥福を祈る。

写真:我が家のうさぎ「アルネ君」と子猫のころの「くしちゃん」

2008年03月06日

●論説「一面のみをとらえた学力低下論議」

 子供の学力低下をめぐる論議が盛んである。学力テストの強化、土曜授業の復活、反復計算の徹底などの主張にはいずれもそれなりの根拠があり、学力の向上のためには、どれも重要であることは間違いない。ただ一方、これらの主張は教育の一面のみをとらえているようにも思われる。
 人が生きてゆくのに必要なのは「知識」と「知恵」である。知識は長時間の繰り返しや暗記によって脳に刻みこまれる性格のものだ。授業時間延長や反復計算の意義はここにあり、最近論議される学力とは、こちらを指すことが多いように思われる。
 対して、知識の上にさまざまな経験や人との交わりによって身についてゆくものが知恵だ。知識が基礎であるならば知恵は応用であり、最終的に教育が目指すところは、不安定化する世界を生き抜いてゆく力の源になる知恵を、いかにして子供たちに獲得させるかという点にある。
 学力の向上は大切だ。がそれは、テストでいい点を取るためではなく、国際間の競争のためでもない。限りある資源と環境しか持たないこの小さな惑星の、唯一、知恵ある生物として、不安と混沌の現在を希望に満ちた未来へと切り開いてゆくためにこそ、必要とされるものなのだ。
 その意味で、現在の学力低下に関する論議は、的はずれとは言わないまでも、本質を見失っているのではないかと思われる。

2008年06月28日

●人口減少社会がもたらすメリット

 人口減少社会の到来が間近だという。その影響についてさまざまな報道がなされているが、ほとんどが経済の視点にとどまっているがゆえに悲観的な見方が多いようだ。だが、人口減少は、本当に悪影響ばかりをもたらすのだろうか。

 明治維新以降、増大する人口と経済発展に対応するため、私たちは森を切り拓き、海を埋め立て、川をコンクリートの水路に変えてきた。美しかった国土は無味乾燥なものとなり、動物や植物は住む場所を失った。
 人口が減少すれば、宅地の新規造成は不要となり、これ以上自然を破壊する必要がなくなるだろう。増えた空き家はスラム化を防ぐため取り壊し、緑の公園にすればいい。自動車の台数も減るはずなので、交通量が極端に少ない道路を森に戻すこともできる。すでに遊休地となっている埋立地も同様だ。教育面では、すべての青少年に高等教育を施すことが可能となる。人口は少なくても、国民すべてが高いスキルを持った国となれば、国際競争力が衰えることはないだろう。

 人口減少は、経済発展のために大切なものを失ってきたわが国が、新しい価値観へ脱皮するための大きなチャンスなのだといえないだろうか。

初出:2005年9月 中日新聞

2008年08月29日

●もっと木を植えよう

 全国的に豪雨が頻発するようになっています。
 異常気象が当たり前になってしまった昨今、地球温暖化がその原因の多くを担っていることを今や否定する人はいません。
 今回、掲載するのは、まだ温暖化の影響が顕在化していない頃に書いた文章です。
 温暖化と言いながら相変わらず緑地面積は減り続け、無駄な屋外照明が街に溢れている現状ですが、決め手となる温暖化対策がない今日、緑地面積の増加は技術的にも経済的にもさほどの困難なく取り組める基本的な方策であると思います。
 生物多様性の保全も絡め、植栽による地球環境の再生に、政府も民間も、今以上に真剣に取り組まなくてはならないのではないでしょうか。
 以下、6年前に書いた提言です。

-----------------------------------------------------------------------------

 地球温暖化が叫ばれるようになって久しい。
政府も民間もさまざまな対策を検討しているが、どれも実効をあげることは難しいようだ。
 職場や家庭でも温暖化が話題に上ることが多くなったが、そうした場面で必ず出されるのが「もっと木を植えればいいのに」という意見である。
 専門家から見ればまことに素人考えであるかもしれない。しかし、温暖化が叫ばれる一方で山の木は伐採され、畑や田んぼが急速に消滅してゆく光景を目の当たりにしている市民の当たり前の意見であることも間違いない。
 何も難しいことはないような気がする。行政が管理している土地にできるだけ多くの木を植栽し、道路沿いには並木を作る。建蔽率が決まっているように緑化率を決め、建物を建築する際は一定面積への植栽を義務づける。ビルの屋上緑化を義務づけ、一定面積以上の緑化を達成した企業には税制上の優遇措置を行なう。造成はしたものの企業誘致が見こめなくなった埋立地や工業団地は森にする。 
 必ずその土地に合った樹種を植えること、それぞれの植栽地域を面的に連続させることに留意するならば、生態系の保全と回復にもつながり、より大きな効果が得られるはずだ。

初出:2002年12月 朝日新聞 

2008年09月12日

●自民党ってすごい!

自民党ってほんとうにすごい。
最近、つくづく思います。
やることなすこと日本をダメにすることばかりで、もはや命運尽きたと思ったら、首相の職務投げ出しという荒業から乱立の総裁選に持ち込み国民の耳目を集めるという、あまりにベタすぎる選挙戦術に突っ走る。
「そんな子供だましに引っかかるはずないじゃん」などというのは日本人の国民性というか民度をわかっていない発言で、ほとんどの国民はそうした自民党の戦術にモロにはめられてしまう・・・。
国民をどのように操縦したらよいのか、知り尽くしているところは、まさに国民政党です。

対する民主党、実際に政権をとったなら、それなりにうまくやるには違いないのですが、自民党に比べて決定的に欠けているのは、国民の操縦法を知らないということです。
コマ劇場の舞台で大立ち回り、興奮が頂点に達したところでおもむろに着流しのサブちゃんがこぶしを効かせた演歌をうなる・・・。
日本人が求めているのはこの展開です。
論理よりも人情、政策よりもゴシップ記事が好き。民主党の最大の欠点は、こうした日本人の国民性に気づいていない、あるいはうまく利用する術をもたないところにあります。賢く立派な人材は揃っているのですが・・・。

その象徴が、5人の総裁選候補者で人気ナンバーワンのassouさん。
いくらバラマキをしても景気は良くなるはずがありません。過去10年間で国民はそのことを十分に認識したはずです。それなのになぜこれほどの人気・・・。

この国はまた失われた10年を繰り返すのでしょうか。
今までは過去のストックで何とか対面を保ってきましたが、もう一度、失われた10年が繰り返されたなら日本は破綻します。
反省しない、学習しない、進歩しない国民。
この国はもう本当にダメかもしれない・・・。

2009年01月01日

●2009年、日本はどうなる

明けましておめでとうございます。

昨年の元旦に「年頭所感」として2008年の日本経済の見通しを書きました。
原油高は続き、増大する長期債務など構造的な要因で株価の低迷も続くだろう、格差問題の根本はアメリカに追随してきた戦後の日本経済と政治の積もり積もったツケであり、総選挙による政権交代(=国民の意識変革)がなければ解決は難しいだろう、そうした中で地球規模の環境への取り組みが日本再生のキーワードになろう、そんな内容です。
そのときは、サブプライムローンに端を発した世界同時不況が訪れることは予想できませんでしたが、市場が限られているのに右肩上がりの経済成長が続くはずはないという意識は常にありました。

それから1年後。
経済情勢は激変しました。我が家の資産も半減しましたが、これは仕方のないことで、歪んだ成長を続けてきた世界経済が常態に戻ろうとしていると考えれば、さほど異常な状況ではないのだと思っています。
短期的には市場に激震が走るでしょうが、アメリカのビッグスリーも自らの経営努力で再生できないのであれば、潰れてしまった方が長期的にはプラスになるでしょう。

年頭に麻生総理は「日本こそ世界で最初に不況から立ち直る」と決意を述べました。
その心意気やよし、と言いたいところですが、日本経済の足を引っ張る最大の要因が、実は変化もなく進歩もない「政治」にあることを考えれば、総理の決意にうなずくことはできません。
自民党は、あまりの長期政権によって持てる資産(人材、発想力)を使いきってしまった感があります。給付金や高速道路1,000円均一など、子供でも考えそうな「政策」しか浮かばないことがそれを如実に示しています。
昨年も書きましたが、政権交代によってしかこの閉塞状況は打破できません。
不況脱出の決意を述べた首相率いる与党こそ日本経済の再生を妨げる最大の要因なのだということを、与野党の政治家はもう一度自覚すべきだと思います。

格差問題も深刻です。
小泉改革が悪かったという短絡的な論調が目立ちますが、どんな社会でも長い平和が続くほど金持ちと貧者の区別が鮮明になってくるものです。
よく二世政治家が問題になりますが、二世が幅を効かしているのは作家や芸能人も同じです。
親に資産や知名度がある二世は才能の有無に関わらずスタート地点から圧倒的に有利です。
親の資産を元に成功した二世の子孫はさらに有利なスタート切れるわけで、こうした状況は社会の全てをぶち壊す戦争や飢餓などが起こらない限り続いてゆきます。
「下流社会」という言葉が流行りましたが、現実はまさにそうで、平和が続くほど社会は「貴族」と「下流」の2階層に分化してゆくのです。
もちろんそうした流れにストップをかけるのが政治ですが、二世政治家がどんどん増えている現状では難しいように思われます。

今は息をついている原油価格も、基本的には産出量が減少する一方ですから、安くなったと喜ぶのでなく、余裕があるうちに次代のエネルギー政策を具体化しなければなりません。

昨年も書いた環境問題への取り組み。
これは世界で最も高い環境技術を有するわが国が、いちばん力を入れるべき分野です。
もちろんその根底には「地球を救う」という高い理念を常に掲げ、そのことを世界にアピールし続けることが大切です。国際社会で尊敬を集めることは、中長期的にわが国の将来にとって大きなプラスになるはずです。

中国が空母の運用を始めるというニュースもありました。
極東の軍事バランスは大きく変わっていくものと思います。
日本もシーレーンと島嶼防衛のために空母を運用する時期がきたのかもしれません。
今後の世界は、露骨な資源の奪い合いになっていくものと思います。
平和を希求する理念と適正な軍事力の保持は相反するものではないことを国民も政治家も自覚しなければ、国益を大きく損ねることになりかねません。

株価はあと3年は低迷するでしょう。今は頭を低くしてやりすごすしかありません。
構造的な不況の脱出に特効薬はありません。麻生総理が固執する「給付金」など、カンフル剤ほどの意味も持たないでしょう。また、自民党や民主党が掲げる「高速道路の低料金化・無料化」は温暖化防止に逆行するもので、交通インフラを活性化させたいのなら鉄道運賃への何らかの補助を行なうべきでしょう。

総合的には、今年のわが国の見通しに明るい要素はあまりないものと思います。
サービスやモノづくりの原点に立ち返って地道に働くしかないのでしょう。

ただ、世界が混乱している今、わが国の技術や制度、理念を誇りと誠実さをもって世界に発信し、アメリカ一辺倒だった世界の流れを変える大きなチャンスでもあります。
そのためにはまず政権交代、ということになるでしょうか。旧いしがらみでがんじがらめになった
今の政権では、未来を見据えた政策はまったく期待できそうにありませんから。

昨年同様、年明け早々から小難しいことばかり書いてすみません。
実は私、経済学部商学科の出身なんです。
明日からはまた、天文や田舎暮らしのことを書きますね。

2009年01月30日

●娘の論文「携帯小説に見える日本の未来」

しばらく前に、高校生の娘が学内の論文コンクールで去年に続いて優秀賞を取りました。
なかなか良いことが書いてあると(親バカですが)思いますので、このブログにも掲載します。

   ☆ ☆ ☆

 私の趣味の一つとして、物語を書く、というものがある。それは私が小学生のころからずっと持っていた趣味だったが、最近、誰かに読んでもらいたいと思うようになった。自分のブログでは細々と小説を連載したりしているのだが、もっと幅を広げたいと思い無料で小説を公開できるサイトを探してみた。俗に言う、携帯小説である。
 今、携帯で書かれた小説が次々と書籍化・映画化している。多くの作品が話題になってい
るのは知っていたけれど、どの作品もしっかり読んだことはなかった。あらすじを聞いた程度である。なので実際の携帯小説というものがどのようなものかは知らなかった。
 しかし自分が書いてみようとするにあたっていくつかの作品をほんの冒頭部分だけであるが読んでみた。

 私は、呆れた。
 こんなものに皆群がってやれ書籍化だ、やれ映画化だと騒ぐ。はっきり言って日本の文学もここまで堕ちたかと思ってしまった。最後まで読んだわけではないから内容は知らない。もしかしたら中に書いてあることは素晴らしいかもしれない。しかし私は中身を読む前に、一ページ目を見ただけで脱力してしまったのである。
 文章には、きちんとした決まった書き方がある。原稿用紙の使い方というものが。段落始めは一字下げる、文章の区切りには句点を、文末には読点を。そのくらい誰もが小学校の国語の授業で習ってきているはずである。それは日本語を書く限りアナログでもデジタルでも変わらない。
 しかし私がほんの少しだけ覗いてみた携帯小説というものはそれらのルールがまったく無視されていたのだ。段落の始めも下げられていない、句読点はない、意味のない改行ばかりあって段落のまとまりもわからない。それどころか台本のように延々とセリフだけが続く、などというものすらあった。
 基本的な日本語の書き方もなっていないのに、これを小説と呼ぶのはおこがましいのではないだろうか。

 携帯小説というシステムそのものを私は批判しない。むしろ、気楽に読めるだけでなく気楽に書けるという点で自己表現の場としては良いものではないかと思う。しかし文章もまともに書けないのなら、携帯小説が良いか悪いかなんていう以前の問題である。

 気になったのでいくつか他の人の作品も見てみた。どうやらそういう文章の書き方をすることが携帯小説を書く人たちの間では常識になっているようだ。きちんとした文章の書き方をしている人の方が少数派らしい。しかし私には、これに納得することができない。ここで言葉は常に変化していくものだからなどと割り切っていいものではない気がする。

 近頃、正しい日本語はどんどん失われていると思う。私たちが普段話す言葉も正しい言葉とはかけはなれたものだろう。携帯小説のような新しい文章のルールを作ってしまったり、必要以上に外来語を使ったり、歌の歌詞にはやたらと英語が混じる。その全てが悪いとは言わないけれど、私たちは自分の国の言葉をもっと大事にするべきだと思う。

 日本語の歴史は長く、かつどの国の言葉とも違う独立した言語を私たちは使ってきた。それは立派な伝統であり、古き良き日本語の中にこそ日本人の心が宿る。その日本語が完全に壊れてしまった日のことを考えると、この国の行く末が恐ろしい。

 日本人はもっと自国の文化に自信をもっていい。もっと誇りを持つべきだ。日本は他の国にはない良いところをたくさん持っているはずだ。日本人だからこそできること、日本の土地だからこそできること・・・。私は日本人に生まれてよかったと思っている。
 日本だからこそある伝統、日本だからこそできた新しい伝統。それらをもっと大切にしてほしい。ここで壊してしまうのは、失ってしまうのはあまりにもったいない。
 もしもこのまま日本語を始めとする伝統が壊されてしまったら。そのときは日本国の崩壊にも等しいのではないかという気さえする。

 文化が常に変化していくものであるのは仕方がないことだ。携帯小説のような新しい文化が生まれることも決して悪いことではない。
 しかし、日本人としてのプライドは、捨てないでいてほしいと思う。    

●娘の論文「携帯小説に見える日本の未来」

しばらく前に、高校生の娘が学内の論文コンクールで去年に続いて優秀賞を取りました。
なかなか良いことが書いてあると(親バカですが)思いますので、このブログにも掲載します。

   ☆ ☆ ☆

 私の趣味の一つとして、物語を書く、というものがある。それは私が小学生のころからずっと持っていた趣味だったが、最近、誰かに読んでもらいたいと思うようになった。自分のブログでは細々と小説を連載したりしているのだが、もっと幅を広げたいと思い無料で小説を公開できるサイトを探してみた。俗に言う、携帯小説である。
 今、携帯で書かれた小説が次々と書籍化・映画化している。多くの作品が話題になってい
るのは知っていたけれど、どの作品もしっかり読んだことはなかった。あらすじを聞いた程度である。なので実際の携帯小説というものがどのようなものかは知らなかった。
 しかし自分が書いてみようとするにあたっていくつかの作品をほんの冒頭部分だけであるが読んでみた。

 私は、呆れた。
 こんなものに皆群がってやれ書籍化だ、やれ映画化だと騒ぐ。はっきり言って日本の文学もここまで堕ちたかと思ってしまった。最後まで読んだわけではないから内容は知らない。もしかしたら中に書いてあることは素晴らしいかもしれない。しかし私は中身を読む前に、一ページ目を見ただけで脱力してしまったのである。
 文章には、きちんとした決まった書き方がある。原稿用紙の使い方というものが。段落始めは一字下げる、文章の区切りには句点を、文末には読点を。そのくらい誰もが小学校の国語の授業で習ってきているはずである。それは日本語を書く限りアナログでもデジタルでも変わらない。
 しかし私がほんの少しだけ覗いてみた携帯小説というものはそれらのルールがまったく無視されていたのだ。段落の始めも下げられていない、句読点はない、意味のない改行ばかりあって段落のまとまりもわからない。それどころか台本のように延々とセリフだけが続く、などというものすらあった。
 基本的な日本語の書き方もなっていないのに、これを小説と呼ぶのはおこがましいのではないだろうか。

 携帯小説というシステムそのものを私は批判しない。むしろ、気楽に読めるだけでなく気楽に書けるという点で自己表現の場としては良いものではないかと思う。しかし文章もまともに書けないのなら、携帯小説が良いか悪いかなんていう以前の問題である。

 気になったのでいくつか他の人の作品も見てみた。どうやらそういう文章の書き方をすることが携帯小説を書く人たちの間では常識になっているようだ。きちんとした文章の書き方をしている人の方が少数派らしい。しかし私には、これに納得することができない。ここで言葉は常に変化していくものだからなどと割り切っていいものではない気がする。

 近頃、正しい日本語はどんどん失われていると思う。私たちが普段話す言葉も正しい言葉とはかけはなれたものだろう。携帯小説のような新しい文章のルールを作ってしまったり、必要以上に外来語を使ったり、歌の歌詞にはやたらと英語が混じる。その全てが悪いとは言わないけれど、私たちは自分の国の言葉をもっと大事にするべきだと思う。

 日本語の歴史は長く、かつどの国の言葉とも違う独立した言語を私たちは使ってきた。それは立派な伝統であり、古き良き日本語の中にこそ日本人の心が宿る。その日本語が完全に壊れてしまった日のことを考えると、この国の行く末が恐ろしい。

 日本人はもっと自国の文化に自信をもっていい。もっと誇りを持つべきだ。日本は他の国にはない良いところをたくさん持っているはずだ。日本人だからこそできること、日本の土地だからこそできること・・・。私は日本人に生まれてよかったと思っている。
 日本だからこそある伝統、日本だからこそできた新しい伝統。それらをもっと大切にしてほしい。ここで壊してしまうのは、失ってしまうのはあまりにもったいない。
 もしもこのまま日本語を始めとする伝統が壊されてしまったら。そのときは日本国の崩壊にも等しいのではないかという気さえする。

 文化が常に変化していくものであるのは仕方がないことだ。携帯小説のような新しい文化が生まれることも決して悪いことではない。
 しかし、日本人としてのプライドは、捨てないでいてほしいと思う。    

2009年05月22日

●両生類の絶滅を防げ

カエルなどの両生類が激減しているという。その最大の原因が生息環境の悪化である。

 両生類は、卵から幼生までを水中で過ごす。全国の田んぼや小川が格好の繁殖場所だったのだが、高度成長期以降、里の小川はコンクリート張りの水路となり、田んぼには大量の農薬が撒布されるようになった。さらに、ある時期になると稲の生育促進のために田の水は完全に抜かれてしまう。以前であれば、たとえ水を抜いたとしても、生物の多くは田とつながった小川に逃れることができたが、コンクリート張りの水路では生命を維持することができない。

 田んぼは人間の食料を得るための施設ではあるが、生物多様性の維持という観点からも、その役割は非常に大きい。今の技術をもってすれば、農業生産性の向上と生物多様性の維持を両立させた田んぼや水路を作ることは決して不可能ではないはずだ。

 効率一辺倒の圃場整備を進める時代は終わった。日本中の田んぼからカエルの声が聞こえなくなる日がくる前に、関係機関は早急な対策を打ってほしいと思う。


☆先日、カエルの生息環境が急激に悪化しているという記事を書きました。
 一昨年、ある雑誌に関連した文章を書きましたので、参考までに掲載します。

●両生類の絶滅を防げ

カエルなどの両生類が激減しているという。その最大の原因が生息環境の悪化である。

 両生類は、卵から幼生までを水中で過ごす。全国の田んぼや小川が格好の繁殖場所だったのだが、高度成長期以降、里の小川はコンクリート張りの水路となり、田んぼには大量の農薬が撒布されるようになった。さらに、ある時期になると稲の生育促進のために田の水は完全に抜かれてしまう。以前であれば、たとえ水を抜いたとしても、生物の多くは田とつながった小川に逃れることができたが、コンクリート張りの水路では生命を維持することができない。

 田んぼは人間の食料を得るための施設ではあるが、生物多様性の維持という観点からも、その役割は非常に大きい。今の技術をもってすれば、農業生産性の向上と生物多様性の維持を両立させた田んぼや水路を作ることは決して不可能ではないはずだ。

 効率一辺倒の圃場整備を進める時代は終わった。日本中の田んぼからカエルの声が聞こえなくなる日がくる前に、関係機関は早急な対策を打ってほしいと思う。


☆先日、カエルの生息環境が急激に悪化しているという記事を書きました。
 一昨年、ある雑誌に関連した文章を書きましたので、参考までに掲載します。