2006年04月26日

●星光雨読の田舎暮らし10年記

住み慣れた東京を離れ、岐阜県の山村に移住してから10年が過ぎた。月並みな言いかたではあるが、長かったようでもあり、短かったようでもある10年間であった。
移住にあたっては、それなりの経緯や決意があったものの、さまざまな機会に書いたり話したりしてきたので、ここでは触れず、「天文」という分野に絞って、田舎暮らしの10年間を振り返ってみたい。

1.田舎の星は本当に美しいか
そもそも私が田舎暮らしを決意したのは、自然に囲まれた暮らしがしてみたかったことはもちろんだが、東京では失われてしまった満天の星空を、夜毎仰いで暮らしてゆきたいと思ったことが直接の動機だった。移住して就いた仕事が、プラネタリウム解説と天文台のインストラクターだったために、天文の仕事がしたかったのだろうと思われる方が多いが、それはどちらかといえば余禄であり、職種にそれほどのこだわりがあったわけではない。
いずれにしても、結果として、「星でメシを食う」仕事に就き、仕事上からも長い間の憧れであった星空を毎夜見上げる生活が実現したわけであるが、そうして見上げる田舎の星空は、はたして期待にたがない美しいものであっただろうかと考えると、一抹の疑問を感じざるを得ないという気がしてしまう。
私が移住してきた当初、見上げる星空は、たしかに掛け値なく美しいものであった。が、それから年を経るごとに村内外の明かりは確実に増加し、特に、日本最大級の徳山ダム建設が本格化したことにより、急激に増加した光害によって、以前は足元さえおぼつかなかった天文台周辺は、今では新聞が読めるほど明るくなってしまっている。
地球温暖化とエネルギーの枯渇が叫ばれているにもかかわらず、「明るいことはいいことだ」「夜を明るくすることが地域おこしにつながる」といった短絡的な発想が全国の農山村に蔓延している現状はなかなか変わらない。
今でも肉眼で6等星が確実に見え、よほど透明度が悪い晩以外、天の川もきれいに見える村ではあるが、星空の美しい場所ほど、光害に敏感にならざるを得ないこともまた事実である。田舎に移住してからも、光害防止に奔走しなければならない現実を、もっと多くの天文ファンの皆さんに知って欲しいと思うのである。

2.観測量は増えたか
強烈な光害のために自宅での観測ができなかった東京在住中は、奥多摩や山梨県に建設した観測所への遠征を余儀なくされ、月に数回の観測量を確保するのが精一杯であった。
それでは、田舎へ移住して観測量が飛躍的に増大したかと言われれば、意外なことにさほどでもない。毎晩、自宅で観測できるのだから、観測量は増えなければいけないはずなのだが、平均すれば、月に5~6回の観測ができれば良い方なのである。
その主な要因は天候だ。同じ田舎でも、太平洋側の平野部であればこんなことはないだろうが、私の住んでいるような日本海気候の山間部は、晴天率が良いとは決していえない。12月から3月までは毎日雪が降り続くし、夏場でも山の天気はモヤが出やすく変わりやすい。一晩中起きていれば晴れ間を見て観測もできようが、朝から仕事のある身ではそうもいかない。また、年齢を重ねるにつれ、さまざまな夜の付き合いも増えてくる。
それでも、昨年は、流星観測で年間30夜を5年間達成して表彰していただくなど、東京在住中に比べれば観測量は多くなった。若い頃のような無茶はなかなかできないので、体力と相談しながら、今後も観測量の維持に留意したいと考えている。

3.自宅で観測は可能か
前項でも書いたとおり、田舎、特に山間部の天候はあまり良くない。また、私の住んでいる村は、周囲を1,000メートル級の山々に囲まれた谷あいに位置しているため、自宅からは低空の視界を確保することが不可能だ。
そのため、せっかく自宅から天の川の見える環境に住んでいながら、天候や観測対象によって、遠征観測を今でも余儀なくされている。冬型の気圧配置の時など、わざわざ空の明るい平野部まで車を走らせることも多く、大きな矛盾を感じながらの観測となる。また、冬場は、時に1メートルを越える積雪に見舞われることもあり、たとえ晴れていても機材を設置する場所がないために、やはり平野部まで下っての観測となる。
とはいえ、大抵の場合はさほど数kmからせいぜい20km程度の移動距離であり、渋滞どころか信号も数えるほどしかないガラ空きの道を、数分から20分程度走るだけで観測地へ到着できるのは田舎の大きなメリットだ。

4.星仲間はいるか
田舎暮らしをしながらの星見というと、山にこもって孤独に観測に取り組んでいる印象を受けるかもしれないが、ありがたいことに星仲間は大勢いる。
岐阜県というところは、なぜか昔から天文が盛んな県であり、公開天文施設で仕事をしていたこともあって、移住してすぐにたくさんの仲間と知り合うことができた。もちろん、そうした仲間が住んでいるのは、岐阜市や大垣市、あるいは名古屋といった都市であるが、ほとんどどこでも渋滞なしで行けるために、50km圏であれば1時間以内で移動することができることから、頻繁に集まっては、さまざまな情報を交換したり、一緒に星を見たりして楽しんでいる。

5.得られたもの、失ったもの
星を見るために田舎へ移住したからといって、何か成果をあげなければいけないということはないのだが、自己満足でもいいから、東京在住中とは違う何かを得たいというのは人情であろう。
田舎へ移住した10年間で得られたものは、まずそれなりの観測上の成果である。それなり、と書いたとおり、さほどのものではない。これが彗星でも発見していれば胸を張って威張れるところだが、地道な観測で得られた小さな成果や評価なので個々の事例は挙げない。
公開天文施設に勤務して広がった知見や人とのつながりも得られたもののひとつだろう。純粋なアマチュアとして東京に住んでいたなら、決して得られなかった経験をたくさん積むことができたことは、天文活動、ひいては人生をいきいきと楽しいものにしてくれた。
もちろん、失ったものもたくさんある。HASの活動になかなか参加できなくなったことは、そのうちでも最大のものである。いつも言っているように、HASを立ち上げ、発展させたことは、私の原点のひとつだ。組織としてのHASはもちろんだが、会を運営するなかで巡り会ったたくさんの個性ある友人たちとのつながりこそ、HASが私に与えてくれたいちばんの宝物なのである。もっとみんなと会いたい、話がしたい、いつもそう思うが、東京と岐阜の距離は遠い。
その多くが東京で開催されるさまざまな天文関係の会議や会合に参加する機会が極端に減ったのも失ったもののひとつである。距離的な隔絶ももちろんだが、土日開催がほとんどのそうした会合に参加することは、土日が勤務日である公開天文施設職員としてほぼ不可能なことであった。

どんなことでも、表と裏があり、メリットとデメリットがあるものである。あのまま東京に住んでいたなら、あるいは今とは異なった人生を歩んでいたかもしれないし、その方が良かったのかもしれないとも、時々は思う。
それでも、たった一度の人生である。普通の生き方ではなく、冒険やまわり道をしてみたい。たとえそれが惨めな失敗に終わろうと、何もしなかったよりはよほどいい。
長々と色々なことを書いてきたが、私自身は、けっこう過ぎた10年を楽しんできたつもりでいる。
最近は、休日でもあまり町に出ることもなくなった。今日も、午前中は、娘と猫とうさぎといっしょに雪で真っ白な村内を散歩し、今はちらつく雪を眺めながらこうして原稿を書いている。冬型も緩むとのことなので、そうすれば星空にも親しめるだろう。
晴れた晩は星を見上げ、雨の晩は読書と創作に親しみ、思索の時を過ごす。これからの10年は、そんな田舎暮らしがしたいと思う。


田舎暮らし最新情報!(ページが余ったのでおまけ)

・永らく藤橋村に住んできた松本家ですが、最近、カミさんが不動産情報を物色している気配で、どうやら新居への移転を計画している様子です。
それほど遠くに移るつもりはないようですが、どうなることやら。
・一昨年、隣の坂内村から滋賀県へ抜けるトンネルが開通し、藤橋村は一気に海に近くなりました。敦賀の海まで1時間半で行けるので、夏になると週末ごとに海へ行っています。日本海はきれいだよ。湘南や伊豆なんて海じゃない!
・かつては超金持ちだった藤橋村ですが、ここ数年の放漫財政が祟り、今では破綻寸前の財政状況。職員の給料は減らされ、庁舎の照明や冷暖房までケチっています。でも、これでいいのです。今まで日本中が浮かれすぎていたのです。
・後日、詳細な報告をしますが、こうした状況を利用して私は、村内の街灯を次々に消灯することに成功しつつあります。村執行部への私の殺し文句「街灯を半分に減らせば、電気代が1,000万円節約できるぜ」
・公共交通の廃止が相次ぐ田舎ですが、先ごろ、岐阜と大野町を結ぶ名鉄揖斐線及び岐阜市内線の廃止が地元に打診されました。すでに揖斐川町~大野町間は廃止されており、廃止されれば路面電車タイプの名鉄電車は全廃されることになります。旅情派の寺坂氏、廃止前に来たれ!

(東大和天文同好会会誌「ほしぞら」2003年3月号掲載)

2006年05月18日

●夜明けの星

子供の頃から星を見ることが好きだった。最近は、仕事と家庭に忙殺されて、星を見上げる時間もなかなか取れなくなっているが、それでも休みの前日などには、明け方まで星の光を浴びて過ごすことがある。
一晩を星との対話に費やしたあとに見上げる夜明けの星空は美しい。多くの人が夢路をたどっている時刻、家々の窓はまだ暗く、車の通行もほとんどない。星を見る妨げとなる人工の光と大気の汚れが最も少ない時間帯なのだから、当然といえば当然なのだが、実際に夜明け前の清澄な星空の下に身を置いていると、どうもそればかりが理由ではないような気がしてくる。
人間の活動による騒音がなく、あたりが静寂であることも理由のひとつだろう。たとえ満天の星空を見上げていたとしても、周囲がうるさくては星空の魅力は半減する。
あるいは、星を見上げる人の心の方に理由があるのかもしれない。煩瑣な夕方より夜明け前の方が、心は確実に澄んでいる。遙かな時空を越えてきた星のささやかな光は、静かで澄み切った心にこそ焦点を結ぶのではないかとも思う。
季節を先取りできるのも、夜明け前の星空の魅力だ。吐く息も凍りつく真冬の黎明、南東の空には夏の代表的な星座、さそり座が昇っている。その心臓に赤く輝く一等星アンタレスを見つめていると、まだ遠い夏の香りを少しだけ嗅ぐことができるし、ひんやりと青い夏の明け方、斜めに並んだ三ツ星を擁した冬の代表的な星座であるオリオン座が昇ってくるのを見れば、透徹した真冬の大気を予感して心が凛とする。
そんな夜明けの星空を見上げるたび、初めて星を見た幼い日の記憶が鮮やかに甦る。小さな天体望遠鏡の傍らで、ただ無心に星の世界に憧れたあの頃の自分を、少しだけ取り戻せるような気持ちになる。
私にとって、星を見るという行為は、ただ視神経でその輝きをとらえるだけではなく、心の中まで降り注
ぐ光子のシャワーを浴びることだ。煩瑣な日常の中で、知らず知らず心の表面に降り積もった何かを洗い流すために、夜を徹して黎明の星空を見上げるのだ。

                              (「西美濃わが街」2004年3月号)

2006年06月13日

●随筆「大彗星は寒さとともにやってくる?」

 秋風が吹くようになってからも、あまり天気の良くない日が続いている。降水量としては例年より少ないそうだが、肝心の夜が晴れない。
 そんなわけで、今年の観測量は多くないのだが、春先はよく晴れた。特に、まだ寒い時期、ちょうど池谷・張彗星が明るく見えている頃は連日好天が続き、伝説のコメットハンターと言ってもいい池谷さん発見の彗星を堪能することができたのは幸せなことであった。
 大彗星の通例として、池谷・張彗星も、近日点通過後、明け方の空に回ってきてからの方がよく見えた。最も明るい頃には、25×150双眼鏡で、光度3.5等級、視直径10分、尾の長さ5度以上と大彗星らしいイメージとなり、時期を同じくして見えていた宇都宮彗星とともに、ほうき星の魅力をたっぷり味わうことができたわけである。

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 4月半ばというのに零下にまで気温の下がったある明け方、双眼鏡の視野いっぱいに尾を伸ばした池谷・張彗星の姿を見つめながら、僕は奇妙な懐かしさを感じ続けていた。迫り来る気の早い黎明の気配を感じながら考え続けていた僕は、やがて本格的に空が青くなり始めた頃、ようやくその懐かしさの理由に思い当たったのだった。

 同好会創立と相前後して話題になったコホーテク彗星からヘール・ボップ彗星まで幾多の大彗星を見てきたが、こうして思い返してみると、どの彗星についてもかなり鮮明な記憶が残っていることに改めて驚く。なかには相当の歳月が経過した彗星もあるにもかかわらず鮮明に記憶に残っているということは、やはり個々の彗星のインパクトがそれだけ大きなものであったからだろう。
 そういった、それぞれ個性豊かな大彗星の表情を反芻するうち、どの彗星を観測した記憶にも、一対のように「寒さ」のイメージがつきまとっていることに、今さらのように気がついた。
 コホーテク彗星が明るくなったのは正月明けから大寒の頃であったし、ウェスト彗星は3月の明け方に偉観を呈した。ハレー彗星も1月から3月が最も明るかったし、百武彗星が夜空の虹のように壮大な尾をなびかせたのも3月だった。春浅い夜空に壮麗な姿を見せたヘール・ボップ彗星は、まだ記憶に新しい。
 そして21世紀最初の大彗星といえる池谷・張彗星も、こうして3月の夕方と4月の明け方に美しい尾をたなびかせている。早春の寒さと肉眼彗星の姿が、あたかも一対のものとして記憶の深層に刻みこまれ、不思議な懐かしさを僕に感じさせているのだった。

 年間に発見される彗星は季節を問わず相当数にのぼり、その中には小望遠鏡に映ずるものも少なくない。しかし、肉眼に映ずるような大彗星となると、何故か年明け早々から早春の寒い時期に集中して出現している。もちろん、この時期は、北半球から彗星を見るのに都合がいいことは確かなのだが、それではこの30年間、南半球だけで見えた明るい彗星はどれだけあるかと考えてみても、ほとんど記憶に浮かんでこない。難しい軌道論はさておいて、ここ30年ほどに限っていえば、「大彗星は寒さとともにやっ
てくる」という経験則がぴたりとあてはまっているのである。

 本当にそうだろうか、うっかり忘れてしまっている夏場の大彗星はないのだろうか、機材の片づけを終えた僕は、薄明に消えてゆく星を数えながら、自問していた。
 1975年、夏空の天頂に見えていた小林・バーガー・ミロン彗星。写真では細く長い尾がよく写ったものの、眼視では貧弱な姿であった。最近では、去年の7月、やはりリニア彗星が西天低く見えていたが、肉眼的な明るさにはほど遠かったうえに、ほどなく彗星自体が崩壊してしまった。
 あとは、と考えてみても、浮かんでこない。
 やはり大彗星は、寒い季節のものなのだ。俳句の世界であれば、まさしく冬の季語となるべき天体なのだ。

 そんなことを思いながら家に帰り、まだ寝静まっている玄関のドアを開けようとしたとき、突然思い出した。
 レビー彗星。1990年8月、夏の大三角の真ん中を泳いでいった肉眼彗星。
 そうだ。夏場の大彗星といえば、レビー彗星を忘れていてはいけなかった。視線方向から見る位置関係であったため尾は短かったものの、街中から肉眼で見えたことから考えれば、やはり大彗星として記憶されるべきものであるはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
 記憶をたどった僕は、やがて小さく苦笑いを浮かべてしまった。
 確かに僕は、レビー彗星を見てはいる。ただし、病院のベッドの上からであったけれど。

 あの夏、バイクに乗っていた僕は暴走車に追突され、右足首を複雑骨折して入院を余儀なくされていたのだった。手術で粉々になった骨は何とかつなぎ合わせたものの、膝までギブスで固められ、トイレすらベッドの上で済ませるしかない日々を過ごしていた僕にとって、日ごとに明るくなるレビー彗星は、手の届かない存在だった。
 天候が悪いのならあきらめもつく。が、この夏は、連日抜けるような快晴が続いていた。手術からさほど日が経っていないために動くことが全くままならないにもかかわらず、一目でいいから彗星の姿を見たいという欲求は募る一方だった。

 ことさらに透明度の良いある晩、意を決した僕は、同じ部屋の患者たちに彗星を一目見たい旨の意を告げ、6人部屋を消灯する同意を求めた。同室の患者たちは快く同意してくれ、ちょうど一番窓際のベッドにいた僕は、窓を開け、ベッドに横たわったまま双眼鏡を目に当てた。
 だめだ。ベランダの庇が邪魔になって、天頂近くにいる彗星は見ることができない。業を煮やした僕は、医者から決して立ってはいけないと言われていたにもかかわらず、ベッドで体を支え、そろそろと起き上がった。
 折れた足に少しでも体重をかけたならば、せっかく手術でつないだ骨がばらばらになってしまう。妻に支えてもらい、両手と片足で壁と窓の桟を伝いながら、ベランダに這い出る。
 妻が、ベランダに椅子を出してくれた。ベッドから1メートルと離れていないその椅子に座るまで10分。体中、汗まみれだ。
 椅子に座った僕は、双眼鏡を目に当てた。病院全体の明かりが思ったよりも明るく、肉眼では存在がわからない。加えて、天頂に双眼鏡を向けることは、片足の僕にとって想像以上に困難なことだった。
 5分。10分。揺れる視野を見つめながら時間だけが過ぎてゆく。普段であれば、ほんの1秒で視野に入れることができる明るい彗星が一向に捉えられないことに癇癪を起こしそうになりながら、必死で彗星を捜し求めた。
 15分後、ようやく白い彗星の姿を捉えた次の瞬間、ぐらりと体が傾いた。あっという間もなく、手術したばかりの足を、ベランダの床についてしまう。
 激痛が走った。よろめきながらベッドに戻った僕は、それから30分ほども油汗を流しながら激しい痛みに耐えなければならなかった。
 幸いなことに重大な支障にはならず、それから3ヵ月後、秋もたけなわの頃になって僕はようやく退院をしたのだが、長い天文人生を思い返してみても、あれほど辛く情けなかった星見の経験は他にない。そして、激痛に耐えながらほんの一瞬だけ垣間見たレビー彗星のイメージは、その他の大彗星とは異なった心の引き出しにしまいこまれ、今に至っているようだ。
 あの入院生活以後、少しは障害を持つ人の苦しみがわかるようになったような気がしている。

 今、考えているのは、病院や障害者施設での観望会だ。病気や怪我で苦しんでいる人たちに遥か遠い天体の姿を見てもらえればと思う。同様に、老人施設での観望会も行ないたい。
 そのためには、体に支障がある方が楽な姿勢で望遠鏡を覗くことができるような工夫をする必要があることも、自らの経験から「痛感」している。
 できれば、明るい虹のように夜空を翔ける大彗星を、苦しんでいる人とともに見上げることができれば、心の中の彗星アルバムに、また新しい1ページを加えることができるのではないかと思う。

(2002年12月発行 東大和天文同好会会誌“ほしぞら”153号掲載分加筆訂正)
写真:池谷・張彗星 10cmF4SDUF EM-200で追尾 露出5分


2006年06月22日

●随筆「星明かり」

「星明かり」という言葉がある。最近ではどこへ行ってもネオンや街灯がきらめき、星明かりなどという言葉は辞書の中でしか生き残っていないようだが、私はこれまでに何度か、この星明かりを体験したことがある。というより、星明かりに助けられたことがあるといってもいいかもしれない。
 冬の夜であった。私は重たい望遠鏡を担いで、真っ暗な山道を手探りで喘ぎ喘ぎ登っていた。懐中電灯を忘れてきたことに気づいたのは、最終のバスを降りて夜の山道を登り始めた時である。すでに帰りのバスはなく、とにかく星仲間の待っている山頂の観測地を目指すしか取りうる手段はなかった。
 空は晴れているはずであったが、分厚い杉の木立に遮られて、辺りは真の闇である。細い道は所々、高い崖の上を通り、あるいは人が一人やっと通れるだけの狭い木橋を渡っている箇所もあった。瞳孔がいっぱいに開いているのが、目の痛みとともに感じられた。望遠鏡は重く肩に食い込み、私は何度かよろけ、転落しかけた。
「この場で朝を待った方がいいかもしれない」。何度、そう思ったことだろう。。

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 突然、視界が開けた。それまで闇の支配していた山道が、ごくかすかではあるが、確かに青い視覚として映じてきた。山頂へ続くつづら折の道が、青い光の中に長く伸びていた。杉の厚い樹林帯を、ようやく抜け出したのであった
 空を見上げた。ほこりのような一面の星空であった。もう心配は何もなかった。青い星明かりの下を、何かひどく透明な気持で、私は仲間の待つ山頂へと急いだのであった。
 あのときの、一種霊的といってもいい星明かりの美しさを、私は今でも忘れることができない。

(岐阜新聞連載「ぎふ星見人」1992年12月15日掲載)
写真:冬の代表的な星座「オリオン座」付近

2006年07月04日

●随筆「ふるさとは東京」

風の冷たさにふと気づいて、僕はレンズから目を離した。観測を始めてから、すでに30分が過ぎている。
空を見上げた。
丸いドーム。長方形に開いたスリットから、こぼれんばかりの星の光が降り注いでいる。
口径60センチの大反射望遠鏡の姿が、星あかりを浴びて暗闇の中にうす青く浮かんでいた。その丸い視野の中では、肉眼には決して映ずることのない、数千光年彼方にあるはずの名も知れぬ星々が、かすかな大気の揺らぎを受けて、生き物のように明滅しているのだった。

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寒い。4月の声を聞いても、山間のこの村では、夜ともなれば零度近くにまで気温が低下する。
長年住み慣れた東京を離れ、岐阜県にある人口わずか450人足らずのこの山村に移り住んでから、いつしか6年が過ぎようとしていた。その頃、ちょうど一歳になったばかりだった娘は、この春、小学校に入学する。

村立の公開天文台職員として、慣れない土地で、それでも懸命に過ごしてきた歳月を振り返るのは、こうして一人きり、天文台のドームの中で、遥かな時間と空間を越えて地球を訪れた星の光と向かい合うひとときだ。
僕も妻も、東京で生まれて東京で育った。子供の頃からの星好きが嵩じて、ふとしたきっかけから、八年間勤めた会社を辞め、それまで縁もゆかりもなかったこの山村の職員として、30年間過ごした東京を後にしてきたのであった。
「ふるさと」という言葉は、甘く切ない。そして、この言葉に多くの人が描くイメージは、唱歌「ふるさと」の情景である。
しかしそれは、普遍的なイメージではあるけれど、確たる現実として、僕にとっての「ふるさと」は東京だ。
滑稽かもしれないが、年に数回、東京に帰省するとき、僕は「ふるさと」を実感する。新幹線が新横浜を過ぎ、多摩川を渡るとき、そして東京駅に到着の直前、減速した車窓をオフィスビル街が通り過ぎるとき、それまで張りつめていた心のどこかが、急速に緩んでゆくのを感じるのである。
あるいはそれ以前に、岐阜羽島駅や名古屋駅で「東京」という列車の行き先案内を見たとき、僕の心はすでに故郷へと翔んでいる。それは恐らく、東北出身の人が上野駅の長距離ホームに立ち、故郷の駅名を掲げた列車を見たときに抱く想いと共通のものなのだろう。
いくばくかの時間が過ぎ、僕は再びレンズに目を当てた。
心の片隅を、ふと後悔がよぎる。両親や親戚、友達と別れ、この山村へやってきたことは、とんでもない過ちだったのではあるまいか。
が、次の瞬間、僕は思い直す。東京を遥かに離れたこの土地で、憧れ続けた星空に少しでも近づくことによって、ふるさとである「東京」を誇りに思うことができるのだ、と。

(1998年 明窓出版刊 エッセイ集「一頁のふるさと ハリエンジュの湖畔」より)

2006年07月17日

●随筆「小さな星座あれこれ」

“台風一過”という言葉がある。子供のころは、一年に一度か二度、必ず言葉どおりの快晴、あるいは満天の星空を見ることができたような気がするが、温暖化の影響か、最近は、台風が行き過ぎてもカラッとした晴天に恵まれることが少なくなってきたようだ。
 そんなことを思っていた矢先に通過した台風6号は、岐阜県西濃地方に大雨をもたらしたが、台風が去ったあとには、久しぶりに言葉どおりの晴天をももたらしてくれた。
 その晩は、娘と二人、今年で一番だろうと思われる星空を庭先から見上げ、感嘆の声をあげていたのだが、さそり座やはくちょう座などの大きくメジャーな星座のなかにあって、ふだんはあまり気にとめることのない小さな星座にしきりに目を引かれたのが、不思議と言えば不思議であった。
 透明度が極度に良かったため、と言ってしまえばそれまでだが、小さな星座のみならず、星座の形、というか星の配列がプラネタリウムで星座絵を重ねたような鮮やかさで目に映り、いきおい、小さな星座
にも目を引かれたというほうが正しいかもしれない。あるいは単に透明度が良かったという理由だけでなく、台風がもたらした湿潤な空気がディフュージョンフィルターのような作用を果たし、輝星をことさらに目立たせる役割を担っていたのだろう。
 その晩、とりわけ目を引いたのは、「いるか座」であった。ひし形の胴体に尻尾の星がちょこんとついたこの小さな星座は、どこか南国を連想させる。この星座をみるたび、澄んだ南の海を元気よく泳ぎまわるいるかの姿を、私は思い浮かべるのだ。

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 同じように南国のイメージを感じるのが、有名ではあるけれど、星座としては小さな「こと座」である。おりひめ星のベガや、ドーナツ星雲M57があるために、どうしても星座そのものよりも個々の天体に目が向いてしまいがちだが、星の配列としても、きれいに整った星座だ。「こと座」は赤緯が高いために、夏の星座とはいいながら実のところほとんど1年中見ることができるのだが、春浅い明け方、霜柱を踏みながらこの星座を見るときでも、私はやはり南国をイメージしてしまう。
 反対に、見える季節そのままに寒い印象の小さな星座が「うさぎ座」だ。きらびやかなオリオン座の下にうずくまっているために、あまり目を向けられることがないのだが、よく見るとなかなか整った姿をした星座であり、一度、星の配列を覚えてしまえば、冬空にうさぎの姿を容易に描くことができる。うさぎは暑さを苦手とする動物だから、凍てつく冬の夜空が似合う星座ということができよう。そういえば、この星座にある球状星団M79は、寒さに丸まったように小さな姿をしている。
 形がわかりやすい小さな星座の代表格といえば「かんむり座」があげられよう。明るいアークツールスのすぐ近くにありながら、一度見ればまず忘れることのない美しい半円形にまとまっている。α星の名はアルフェッカ、文字通り“欠けた皿”という意味だ。
「かんむり座」と良く似た星座が、夏の南天低くに見えている。「南のかんむり座」である。さそり座やいて座といった超有名な星座に隠れてほとんど注目されることもないが、本家?の「かんむり座」と同じく半円形の姿が美しい。
 ほとんど注目されないといえば、春の星座に「こじし座」がある。有名なしし座のすぐ北にあるのだが、明るい星がないために、形をたどろうにも、街中ではそのエリアに星の姿を探すことすら難しい星座である。
 そんなマイナーな「こじし座」だが、だいぶ以前、ふとした拍子に、本家本元のしし座とそっくりな姿を夜空にたどることができてびっくりしたことがある。もっともそれはそのときだけで、その後は何度目を凝らしてみても形をたどることができずにいるのだが、今から思えば、あの晩も、かすかに海の香りを大気に感じるような台風一過の快晴だったような気がする。
 春の星座といえば、「かみのけ座」もあまり目立たない。面積的にはさほど小さくはないのだが、暗い星が朦朧と集まった姿は、やはり都会で見ることは困難だ。それでも、となりの「かに座」と並んで、春のうすぼんやりと霞んだ夜空に似つかわしい星座ではある。
 思いつくまま、季節の夜空に見える小さな星座を取り上げてきたが、ここまで書いてきて秋の星座がないことに気がついた。それでは、と思い、秋の星座を思い浮かべてみたのだが、こと、小さな星座となる
と、あまり印象に浮かんでこない。
 考えているうち、秋の星座のどれもが線の細い印象であることに気がついた。カシオペヤ座やペガスス座をはじめ、それこそギリシャ神話のメインキャラクターばかりなのだが、春のさそり座や、冬のオリオン座、あるいは春のしし座などに比べると、奇妙にひっそりとした印象なのだ。
 これは多分に、秋の夜空に明るい星が少ないこと、輝く夏が過ぎ、冬に向かう、どちらかといえば寂しい季節であることなどがその理由なのだろう。秋の星座は、有名な星座も小さな星座も、どれもつつま
しくこじんまりしているように感じられる。とりたてて取り上げるべき小さな星座が思い浮かばないのも、多分にそんな理由によるものなのだろう。
 そして、秋の星座には、そんなつつましさがよく似合うような気がする。

写真:こと座のリング星雲M57(60cm反射)
「STAR RIGHT PARTY通信Vol.20(2002年)」掲載

2006年07月25日

●満天の星を見ながら音楽を聴きたいなあ!

星を見るという行為と音楽を聴くという行為は、まったく異なるものでありながら、どこかでつながっているような気がします。それは恐らく、どちらも人間としての心の琴線に触れる行為であり、目で見る、耳で聴くという違いこそあれ、私たちの精神が求めている「心地よさ」を具現化する行為であるからなのでしょう。
私の仕事はプラネタリウムの解説ですが、その意味では満天の星を見上げながら美しい音楽に身を任せることのできるプラネタリウムは、よく考えられた「癒し」の空間なのだなあと、いつも思います。
精神的に疲れているときなど、私はときどき「瞑想」と称して(妄想ではありませんヨ)、部屋を真っ暗にして好きな音楽を何時間も聴いていることがありますが、そんな時、心の表面に積み重なっていた澱のようなものが少しずつ剥がれ落ち、精神がクリアーになっていくのを感じます。身の回りに生起する何気ないできごとや自然の移ろいが、愛しく新鮮に思えてくるのです。
実際の星空を見上げながらじっくり音楽を聴いたことは残念ながらありません。本当に疲れているときなど、そんな状況に身を任すことができれば、それは最高の癒しになると思います。つくりもののプラネタリウムと違い、目に映っているのは何十光年もの時間と空間を渡ってきた本物の星の光なのですから。
ただ、星を見るのは基本的には屋外であることから(天文台のドームの中で、という場合もありますが)、本格的に音楽を楽しむ環境を作り出すことはなかなか難しいものです。ラジカセを傍らに置いてCDを聴くぐらいはできますが、やっぱりもう少し良い音で聴きたいですよね。
全面ガラス張りドーム(曇り止め機構つき)で、ちょっと高級なオーディオセット完備、リクライニングチェア-装備、というような天文台があればいいなあ。この際、望遠鏡はあってもなくてもかまいません。でも、望遠鏡なしでは天文台とは言わないのかなあ。
光害がなく、視界抜群の場所にそんなドームを設置し、冷暖房完備のもとで、ちょっと高いお酒でも舐めつつ、好きな音楽を聴きながら満天の星空をリクライニングチェア-から見上げる・・・。
うーん。贅沢ですねえ。でも、堕落しているようにも思えます。いや、どうせ実現しないのだから、堕落でもなんでもいいのだ。
・・・閑話休題。
星を見るのにどんな音楽が良いかというテーマが、天文ファンの間でときおり話題になります。もちろん、個々それぞれ好きな音楽はさまざまですから、結局は自分の好みを開陳するだけという結果に終わってしまうのですが、ふたつだけ、私の大好きな曲を紹介させていただきます。
ひとつはモーリス・ラヴェルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」です。ラヴェルが当初、作曲したのはピアノ曲としてですが、後にオーケストラバージョンも作られています。いかにも深夜を連想させるこの曲を聴きながら夜空を見上げていると、時間と空間の流れが眼前に見えるような、そんな気にさせられます。いかにもフランス的な技巧を凝らし、不協和音に溢れたものが多いラヴェルの曲の中で、この曲だけは
ロマン主義を強く感じさせるものとなっています。
もうひとつは、これもポピュラーな曲ではありますが、ドビュッシーの「月の光」です。ところどころに散りばめられたピアノのフレーズが、月明りの中できらめく輝星、微星の輝きを連想させる名曲です。
 ボクはこんな曲が星見に合ってると思うヨ、という方がいましたら、ぜひ教えて下さいね。

(STAR LIGHT PARTY通信Vol.16掲載加筆訂正)

2006年09月25日

●寒谷峠銀砂幻想

 私たち天文ファンにとって「人工照明」というものは憎んでも憎みきれない仇敵のようなものです。明かりに追われて山奥へ山奥へと逃げてゆく天文ファンの姿は、我ながら悲しいですよね。
 ところが最近、ふとしたことから「心安らぐ人工の明かり」を見る経験があり、少しく人工照明に対する認識を新たにすることができました。

 私の住んでいる岐阜県藤橋村は、美しい星空に恵まれていることで有名です。これは、周囲を山に囲まれ、かつ人口が大変に少ないためなのですが、反面、四方どちらを向いても山ばかり、広い視界が得られないという欠点も併せ持っています。
 そのため、田舎に住んでいながら、観測する天体の高度が低い場合には、低空が見える場所へジプシー観測をすることになるのですが、南西の低空を見る際には、藤橋村と坂内村の村境にある寒川峠という場所に出かけます。藤橋村の中心部である横山地区にある夕日谷キャンプ場をかたわらに見て、さらに林道を上ったこの場所は、さほど広くはないものの、直接目に入る人工の明かりは皆無という恵まれた環境です。

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 昨年の冬のはじめ、シュワスマン・ワハマン第3彗星を見るために、15㎝双眼鏡を車に積んで、私はこの峠に出かけました。シュワスマン・ワハマン第3彗星はちょうど大バーストを起こしており、予報光度よりもはるかに明るい6等級、ダストの尾を流した雄大な姿を見ることができ、大満足した私は、同彗星が西空に沈んだ後も双眼鏡で西の空を彩る夏から秋の星座を探索していたのです。
 ふと気づいたときには、かなりの時間が過ぎていました。空は相変わらず透明そのもの、秋の天の川が雲のように頭上を流れ、そろそろ虫の声も聞こえなくなった山中は静寂そのものです。
 月の出が迫ってきたため、私は双眼鏡を片づけ、その日の観測を終えました。
 真っ暗な峠道を、慎重にハンドルを握りながら下ってゆきます。ヘッドライトに映し出されるのは、荒れた路面と葉を落とし始めた木々の影だけ、そんな山道をかなりのスピードで下っていた私は、ふと、前方に星の光を見た気がしていぶかしく思いました。もちろん、頭上には満天の星空が広がっているはずですが、ヘッドライトに幻惑されて星の姿は見えるはずもありません。

 おかしいな、と思った次の瞬間、たしかにフロントガラスの向こうにきらめく一群れの星を見つけ、私は車を停めました。
 車から降り、地平線からわずかに下方を見た私は、思わず息をのみました。
 それは、まさに星でした。輝星・微星が入り混じって、ちょうど低倍率で見る散開星団さながらに、きらめく星の群れが静かに明滅しているのです。角度で言えば、ほんの2~3度の範囲、散開星団というたとえが適切でなければ、漆黒のビロードの上に銀砂をひとつかみ、そっと撒いたような、控えめですが幻想的な星の輝きです。
 私は空を見上げました。木立の間から覗くまばゆいまでの秋の星々、そして私の足もと、初冬の闇に沈んだ下界にきらめく銀砂さながらのもうひとつの星の群れ。
 それは遙かに望む、藤橋村の明かりなのでした。
 藤橋村は人口わずかに450人、揖斐川が刻んだV字谷の僅かな平地に人々が寄り添うように暮らしています。その周囲は完全な無人地帯であるために、高所から見ると、ささやかな集落に灯る明かりの群れが、ちょうど散開星団のようにごく狭い範囲に寄り集まって見えているのでした。

目の敵扱いの人工照明ですが、このときばかりは頭上を彩る秋の星々と眼下に瞬く藤橋村の遠い街明かりの双方を、とても優しい想いで見つめることができました。
 初冬の峠道で見つけた「地上の星明かり」の話はこれだけです。
 私はふたたび車のハンドルを握り、人の暮らしの中へと戻っていったのでした。

Star Light Party通信 Vol.8(1995年)掲載加筆訂正
写真:ペルセウス座(55mm F2.8レンズにて)

2006年12月24日

●随筆「クラシック・テレスコープ賛歌」

「天文はやっぱり観測だ!」
 ちょっと大げさですが、これが長年の信念?でした。
 天文という趣味には、観望、観測、写真とさまざまな流派?があり、最近ではプロも裸足の研究屋さんや、本物の星を見るよりも「プラネタリウムを見るのが大好き」という人もいます。色々な楽しみ方があり、それゆえ天文という趣味は楽しいのですが、私は単なる観望よりも、何か目的を持って観測をするという、どちらかといえば硬派路線が好きで、ここ10年ほどはそんな楽しみ方をしてきました。
 いわゆる「観測屋さん」志向は今でも変わらないのですが、最近はもうひとつ、「オカネがあればやってみたい」ことがあります。それは「古い望遠鏡を集めてみたい」ということです。
 天文以外の趣味では、こうしたレトロ趣味の収集志向という路線は、ひとつの分野として確立しています。たとえば、クラシックカー、バイクのレストア、古書収集など、いわゆる「大人のシュミ」として確固たる地位を築いているように思います。しかし、こと天文という趣味分野では、そうした収集志向はあまり聞いたことがありません。
 どちらかといえばハード志向の「観測」に対し、こうしたレトロ趣味は、ややもすれば後ろ向きの姿勢とも取られかねませんが、長年、天文趣味を続けていると、やはり懐かしい望遠鏡、そして時代を画した往年の名機を、折に触れ思い起こしてしまうのです。
 私が天文をはじめた頃のベストセラー機であるミザールのH-100反赤、その頃の天文少年の憧れだった同じくミザールのカイザー型屈赤、初の本格的自動赤道儀であるタカハシP型、驚異的な鋭像を誇ったニコン8㎝屈折、短焦点屈折のハシリ、カートンコメットシーカー6㎝屈赤、日本離れしたスタイルと性能のユニトロン(日本精光)赤道儀シリーズ、初のシステム赤道儀の五藤マークXシリーズ等々、挙げればキリがありません。比較的最近では、トミーのファミスコなども異色の存在として挙げることができるでしょう。現行品では、タカハシEM-200赤道儀、ビクセンR-200SS反射なども、いずれ「名機の殿堂」入りすることと思われます。
 同じ光学品でも、カメラの場合は東京にカメラ博物館があり、古今東西の名機を収蔵・公開しているのですが、天体望遠鏡に関してはそういった事例を知りません。光学品としての歴史的・文化的価値を考えた場合、天体望遠鏡についても、収集・保存を行う必要性が急務であると考えます。
 今回、例に挙げたのは、過去30年間ほどの比較的新しい機種ですが、古くは戦前・戦中の機種も保存する必要に迫られており、既にその多くは散逸してしまっているものと思われます。
 何だか学芸員報みたいになってしまいましたが、趣味として、そして文化遺産として、古い天体望遠鏡を収集して公開できたら、最近、そんなことを思うのです。
 有志でお金を出し合って「幻の名機集め」をしてみるのもいいかもしれません。お金はかかりますが、ハイソな大人の楽しみでっせ~。

Star Light Party通信 Vol.5(1995年1月28日発行)掲載分を一部訂正

2007年01月02日

●年頭随筆「正月徒然」

 毎年、年末年始には東京へ帰省するのだが、今回、カミさんと娘は帰省したものの、私は一人、岐阜の自宅を守っている。
 毎年、と書いたが、そういえば昨年も帰省せず、かわりに父と母が岐阜へやって来た。昨年は、甥っ子が大阪の病院に入院しており、見舞いも兼ねて父母がやって来たわけである。そんなわけで元日から大阪まで見舞いに出かけた。12月の大雪がまだ残っており、関が原付近は駅のホームに1m以上の雪が積もっていた。甥っ子は夏の盛りに亡くなった。
 今年はといえば、さほどの大事件があったわけではない。消防団の年末夜警当番が29日に当ったこと、カレンダー上の正月休みが短いこと、そして、うさぎ1羽と猫8匹の世話を家族の誰かがしなければならないため、「それじゃあ、今回は僕が残ろうか」ということになった次第である。
 年末夜警の晩は雪であった。大雪の予報も出ていたため、車にスコップを積み込み、帰れなくなったときのためにシュラフも用意して出かけたのだが、藤橋の積雪は思いのほか少なく10cm程度だった。
 翌日、カミさんと娘を駅に送ったあと、年末は若干の書き物、掃除、うさぎと猫の世話をして過ごした。大晦日には、職場であるプラネタリウムまで車を走らせ、施設点検と池で飼っている鴨と鯉に餌を与えた。我ながら律儀というか苦労性なことではある。
 元日と今日、2日も、さして特筆すべきことはない。両日とも朝8時過ぎに起床し、まずは、うさぎを外の小屋へ出し餌を与えることから始まった。ウチのうさぎは贅沢なことに、室内と庭それぞれに小屋というか檻を有している。朝になると外の家へ出し、夜になると室内の家へ連れ帰る。外の家は土が敷いてあるため、大好きな土掘りを楽しめる。夜は、寒いのと蛇やイタチに襲われるのを防ぐために室内へ入れるのである。
 次は、朝食の前に猫のお世話である。拙宅には猫が8匹いる。そのうち1匹はいちばん古株であり、自由に家の中をうろうろしている。特設の、どこでもドアならぬ『ねこでもドア』を通って外へ出るのも自由である。女王様とも言われているその猫、ビビさんに食事を与えた後、残る7匹が住まう通称『ねこ部屋』へ向う。
『ねこ部屋』というと何やら怪しげだが、実のところ拙宅で最も良い6畳間を猫専用にリフォームしてある。猫たちが出てしまわないように二重になったドアを開けると、腹を空かした猫たちが寄ってくる。一匹ずつ分けた食器にドライフードを盛って与える。
 7匹のうち1匹だけは特別食を用意してある。下部尿路疾患と口内炎を併発している黒猫なのだが、予防食と通常のドライフードをミキサーで粉にしたものにお湯を注ぎ、さらにウェットフードと薬を混ぜて粥状にしたものを与える。口内が痛むために、固形の餌は食べられないのである。くろ、と安易な命名がされているこの猫、どうやら鬱病も併発しているらしく、何とも難儀な猫なのである。(猫に鬱病なんてあるのかって? 長い私の猫経験によればたしかに猫も鬱病にかかるのである)
 食事をしている間に、3つ置いてあるトイレの掃除と床掃除。遊ぼう遊ぼうと寄ってくる猫たちと少しだけ遊ぶ。
 うさぎと猫の世話は終わったが、まだ仕事が残っている。昨夜の残りのご飯と、新しい食パンを持って庭へ出る。庭に配してある大きな石の上にご飯とちぎったパンをばらまく。すぐにスズメが舞い降りてくる。あとからあとから、数十羽が集まってくる。スズメだけではなく、ヒヨドリやモズもやってくる。それなりに風情のある庭石なのだが、今や主たる役割は鳥たちのダイニングテーブルである。石にしてみれば憤懣やる方ないことだろう。
 こうして、ようやく人間様の食事時間となる。鳥に与えたために1枚減ってしまった6枚切りのパンをトーストし、ごくごく簡単な朝食を摂る。昼まで簡単な原稿仕事を一件、片づける。昼過ぎには、またプラネタリウムまで車を走らせ、池の鴨と鯉に餌をやってきた。
 こう書いてみると、なんてことはない、単なる動物の飼育係である。それも、血統書つきの犬や猫ならいざ知らず、学校からもらってきたうさぎ、捨てられていたのを保護した猫、客寄せに飼っている鴨と鯉、さらにはただの野鳥。
 馬鹿みたいである。それでも、それなりに満足して冬の一日は過ぎてゆく。
 娘が帰ってきたら、一緒に近所の神社に初詣に行かねばなどと思いながら、居眠りしているビビさんを膝に乗せ、この文章を書いている。怠惰なのか勤勉なのか、自分でも分かりかねる正月である。


2007年01月04日

●随筆「ちゅらさん」

 年末年始は、動物の飼育係として過ごしたことを書いた。とはいえ、もちろん一日中、動物の世話をしていたわけではない。というより、正月三日間、夕方の時間帯は、およそ私らしくない時間を過ごしていた。なんと「テレビを見ていた」のである。
 私をよく知らない人は「なんでテレビを見るのがらしくない過ごし方なのさ」と思うだろう。日がなテレビの前でゴロゴロすることこそ正月の醍醐味だ!と力説する向きも少なくないに違いない。
 それはそれで正しい正月の過ごし方だと思う。が、普段、私はテレビをほとんど見ない。誤解していただくと困るのだが、別段、テレビが悪いとか否定しているということではない。ただそういう習慣なのである。
 そんな私が、正月の三が日はなんとホームドラマに見入っていた。それもNHKの朝ドラ再放送、しかも何度も放送されてきた『ちゅらさん』総集編である。
「だせえ!信じらんねえ!」とか「まっちゃんらしくない!」とか「おばさんみたい」とか言われることは覚悟の上でこの文章を書いているのだが、実のところ私は『ちゅらさん』の大ファンなのだ。私だけではない。家族そろって大ファンである。
 クサいストーリーであることはわかっている。超越的な力に導かれた初恋の成就、主人公を支える家族と友人の愛情、泣き笑い。
「シニカルで理性的で情に流されないまっちゃんがなんでよ!」と思う方には申し訳ないが、私の一面は直情的で情に脆くお人好しである。自分で言うのだから間違いない。『ちゅらさん』は、そんな私の一面を見事にヒットしたドラマなのである。
 ストーリーは誰もが知っているからここでは書かない。それでも、直情的で、ある意味ごくごく安易な展開のストーリーが、久しぶりに見た今回、これまで以上に心に染みて、恥ずかしい話だが何度か私は涙しそうになった。
 重なるのである。主人公を支える賑やかな家族と、数年前まで東京に帰るたび、集まって同じように賑やかな時間を過ごした私とカミさんの家族の姿が。
 『ちゅらさん総集編』の3回目を見た後、猫の世話をしながら娘がぽつりと言った。
「前は東京に行くとすごく楽しかったのにね。ほんの何年か前のことなのにね」
カミさんと私の家族、親戚の何人かが続けて亡くなり、父の体調もすぐれない。今、東京へ帰っても、かつてのように親きょうだいが集まって賑わうことはなくなってしまった。娘が言うとおり、数年前が嘘のようだ。
『ちゅらさん』を見終わり、夕食を済ませた後で、娘がピアノを弾いた。私の好きなラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を娘が弾くのを聴きながら、突然、小さかった娘がよくぞここまで成長したものだという感慨にとらわれた。同時に、何よりも家族がいちばん大切なものなのだと、ごく当たり前のことを改めて何者かに告げられたような気がした。
「テレビドラマを見てそんな当たり前のことを考えるなんて、まっちゃんもヤキが回ったもんだぜ」と思われるかもしれない。
 が、日常の些細なできごと、それが安易なテレビドラマであれ、何かしら心を正してくれることを見つけられるうちは、私もカミさんも娘も前を向いて生きてゆけるのだと、そして離れて暮らす東京の父母やきょうだい、光や風となって今も私たちの傍らにいる亡くなった人たちとずっと心を通じ合ってゆくことができるのだろうと、直情的で情に脆くお人好しの私は思うのである。
『ちゅらさん』というドラマは、そんな、人としての基本的なありかたを、誰にもわかるようごく平易に展開してくれるからこそ、これほど広汎な支持を得ているのだろう。

2007年01月17日

●随筆「星の香りに包まれて」

「星にも香りがある」と言ったら、笑われるだろうか。
 小学生の頃から、星を見ることが好きだった。星への憧れはやまず、当たり前のようにプラネタリウムの解説者になった。かれこれ三十年以上、夜空を見つめ続けるうち、星それぞれの香りに気づかされた、というわけだ。
 こんなことを書くと、
「香りは大気が伝播するものなのだから、遥か大気圏外にある星が香るはずなどない」
 そんな反論をされるかもしれない。というより、科学的にはその通りだ。
 それでも私は、それぞれの星に固有の香りを感じ取る。たとえば、星占いで知られる「おとめ座」のスピカは水仙の香り、さそり座のアンタレスは真っ赤な薔薇の香り、そして織姫星である「こと座」のベガは生命溢れる初夏の香り。
 こうした「香り」が、その星の見える季節や星自体の色によって印象づけられたものだという見方もあるだろう。実際、スピカは、初春の水仙が咲く季節に見える星だし、アンタレスの色は薔薇のように赤い。ベガは「夏の大三角」のひとつだ。 
 と、合理的な解釈をしてみるのだが、真冬の低空を渡っていく「りゅうこつ座」のカノープスは、甘い南国の香りを漂わせる。同じく冬の星座である「こいぬ座」のプロキオンが放つ香りは、柑橘系の果実を思わせる。冬の夕方、西の空に傾いたベガは、やはり初夏の香りをまつろわせる。必ずしも季節や星の色が、その星の香りを印象づけているとはいえないようなのである。
 私が星を見るのは、基本的には学術データを得る「観測」のためだ。とはいえ、科学の視点のみで見上げる星空はいかにも味気ない。星の香り、風の匂い、木々のざわめき。そうした自然からの語りかけにいつも包まれてきたからこそ、私は星を見続けてきたのだろうし、これからも見続けていくのだろう。

2007年01月28日

●随筆「ビビさんの妖力」

 ビビさんは、ウチで飼っている猫である。飼いはじめた当初は、ただの「ビビ」であった。「ビビ」が「ビビさん」と尊称で呼ばれるようになるには、それなりの理由がある。それについて書こうと思う。
 ビビさんは野良猫だった。痩せこけて皮膚病に侵され、しかも原因は不明だが足がうまく動かない状態で、よろよろと我が家に迷いこんできたのである。
 あまりに哀れなので保護した。病院に連れてゆき治療を施したが、当初は外猫として餌だけを与えていた。折しも冬に向う時節で、日ごとに寒さが募るなか、玄関に作った雪囲いがビビさんの住まいとなっていた。雪が舞い始めるころになると、寒かろうなあ、家に入れてやろうかと何度か家族で話し合ったが、ちょうど娘のアトピーが悪化していた時期でもあり、抜け毛やダニの飛散を考えるとなかなか決断がつかなかった。娘は、そんなビビさんが不憫だったのだろう、餌の時間になるとビビさんを膝に抱き、ときには2時間以上も寒い雪囲いの中で撫でたり話しかけたりしていた。
 そんなある日、私の顔を見るなり娘が唐突に言ったのである。
「ビビさんが人間になった」
 玄関で人の気配がしたので様子をうかがうと、曇りガラスのドアごしに、白黒の和服を着た長い髪の女が立っていたのだという。ああ、お客さんだと思ってドアを開けると、そこにいたのはビビさんだったというのだ。
 ビビさんの毛は白黒模様だ。顔立ちも立居振舞も断然、和風である。人になったとすれば、娘が言うイメージがぴったりだ。

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 こんなこともあった。
 当時住んでいた藤橋村は山奥の寒村だが、となりの坂内村から峠を越えると意外なほど日本海が近い。そんなわけで、夏にはよく家族で泳ぎに行った。
 8月のある日、やはり海に行った。遊びすぎて帰りが遅くなった。あたりは薄暗くなり始め、このままでは家に帰りつくのは午後8時を回ってしまう。
 ビビさんに餌を与えるのは、毎日午後6時前後だった。一人ぼっちで寂しいだろう、おなかを空かしているに違いない、そんなことを考えながら、とっぷりと暮れた峠道を走っていた。
 猫の姿を見たのは、峠を越えてしばらく走ったころだった。道の端に、ぽつねんと座った猫がこちらをじっと見つめている。人家などまったくない深い山中だ。しかも冬には3メートル近い雪に覆われる。野良猫が住んでいるはずなどない。
 猫の姿にビビさんをダブらせながら、アクセルを踏みこむ。妻も娘も「ビビはどうしているかな」と話している。
 峠を下り、坂内村と藤橋村のちょうど中間、やはり人家も何もない山中で、また猫の姿を見た。やはり道の端に座りこみ、しんねりとこちらを見つめている。
「あれはビビだよ。私たちが帰るのを待ってるんだよ」
 娘の声に、さらにスピードを上げた。
 ようやく家に帰りついた私たちを、ビビは道の端に座って待っていた。そろそろ戻る刻限だと知っているような顔つきだった。
 そんなことがあって、ビビさんは家の中で飼われるようになった。単なる「ビビ」から「ビビさん」と呼ばれるようになった。
「ビビさん、また人間にならないかなあ」
 今でもときおり、娘が言う。
「でも人間になったらパパが大変かもね。ビビさんはパパを愛しているから」
 そうなのだ。私へのビビさんのなつき方は尋常でない。
 人間になったら本当に大変かも知れないと思う。愛人や妾に細かく気配りできる甲斐性を、残念ながら私は有していないのだ。

写真:ビビさん、笑う。

2007年02月03日

●随筆「沖縄が呼んでいる」

 我が家ではいま、「沖縄」がブームである。というより、沖縄に呼ばれていると言った方が正しいかもしれない。
 以前、このブログにNHKの朝ドラ、「ちゅらさん」についてのエッセイを書いた。あれこれ書いたが、つきつめれば、我が家では全員が「ちゅらさん」というドラマの大ファンだという内容である。
 ウチの家族はもともと寒さが苦手だ。夏になると元気になり、冬はひたすら耐え忍んで過ごす。カミさんなどは「岐阜なんかじゃなくてもっと南の島に移住したかった」と半ば本気で言うほどだ。娘は純日本料理が好みだが、私とカミさんは南方系の料理が好きで、タイに行った際も辛いといわれる現地の料理に何の抵抗もなかったし、チャモロ料理も好きである。沖縄そばは大好物のひとつであり、ゴーヤーチャンプルーも今のようにメジャーになる前から愛好していた。
「ちゅらさん」のファンであるのもそうした我が家の気風が根底にあるためだろうが、実のところ、カミさんと娘は沖縄へ行ったことがない。それが、今年に入って沖縄へ行きたいというムードが俄然、盛り上がってきた。

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 きっかけはもちろん「ちゅらさん」総集編の再放送と「ちゅらさん4」の放送である。放送を見て「やっぱり沖縄はいいなあ」と思っていたら、たまたま「ちゅらさん」のドラマ中に小道具として登場する本の実売版を見つけてしまった。残部一冊とのことで、もちろんすぐに買い求めた。
 また、ある本で「東京の沖縄料理店」なる特集を見ていたら、何と私が以前、勤めていた会社のすぐ近くにある沖縄料理店がでかでかと紹介されていた。もう20年近く前になるが、その頃から沖縄料理を愛好していた私は、頻繁に会社から徒歩5分ほどのその店に通っていたのである。懐かしかったというより、運命的な何かを感じる再会であった。
 さらに昨夜のことである。仕事の付き合いでちょっとした宴会に参加し、隣りの人と旅行の話になった。その人曰く、
「松本さんは星が好きだそうですが、昨年は娘と一緒に西表島に行ったんですよ。星が目茶苦茶きれいだったなあ。いや、ここ数年、沖縄にとりつかれてましてね。毎年、娘とあちこちの島に行ってるんです」
 このように、偶然とはいえ、今年に入って沖縄がらみの出会いがあまりに多いのだ。
「神様が沖縄に行くようにって言ってるんじゃない? 絶対そうだよ」
 娘は、当たり前のような顔をしてそう言う。
「そういうもんだよ。神様の言うことには従うもんだよ。小説を書くときもそうでしょ」
 そうなのだろうな、と思う。
 私は時折、小説を書く。うんうん苦労して書いた小説に限って文学賞に通らない。賞を貰えるのは、私流に言えば「天の啓示があった」作品である。そうした小説は、何の苦労もなくさらさら書けてしまう。
 というわけで、春休みは久々に沖縄へ行くつもりである。神様が行くように言っているのだとすれば、私や家族にとって何かしら得るものがあるに違いない。

写真:バイクで沖縄本島を回りました。

2007年02月15日

●随筆「この街が伝えてきたもの」

 プラネタリウム解説者という職業柄、望遠鏡を持参しての天体観察会を頼まれることがある。大抵は、学校や公民館が会場となるのだが、その日は、長良川河畔のホテルという珍しい場所が会場だった。夏の宵を星空の下で楽しんでもらおうと、ホテルが企画した宿泊客向けのイベントだ。
 ホテルの屋上に望遠鏡をセットし終えると、浴衣姿のお客さんが上がってくる。市街地ということもあって、さほど星の数は多くない。それでも、夏の大三角が頭上に輝き、南天低くには、さそり座が雄大なカーブを描いている。西の空には傾いた月。ほろ酔い加減のお客さんは、代わる代わる望遠鏡を覗いては、天体の姿に感心することしきりである。
 折しも、見下ろす長良川では鵜飼がたけなわだ。真っ暗な川面に、何艘もの鵜飼船が火を点し、視線を上げれば、ライトアップされた岐阜城が幻想的な輝きを放っている。そんな金華山に向かって明るい星が流れた。ペルセウス座流星群だ。傍らにいた浴衣姿の女性従業員が、少女のような歓声を上げる。
 望遠鏡を覗くお客さんに説明をしながら、僕はいつか、不思議な酩酊感にとらわれていた。川面を渡る夜風は、ビルの屋上にまで水の匂いを運んでくる。頭上に輝く夏の星々、透けるような銀色に輝く岐阜城、真っ暗な川面に光跡を描く鵜飼の篝火。妖しくしどけなく心に染み入るあえかな光のページェント。
 この街が伝えてきたもの、そしてこれからも伝えたいものはこれなのだな。唐突にそう思った。極彩色の派手やかさでもなく、鋭角の未来感覚でもない、柔らかな陰影に満ちた自然と伝統の街。東京のコピーなど目指すことはない。長良川の流れと同じ、緩やかな自然体こそが、この街にはよく似合う。
 天の川が見え始めた。鵜飼もクライマックスを迎えたらしく、静かなどよめきが、夜風に乗ってこの屋上にまで伝わってくる。

*岐阜市が公募している「岐阜観光エッセイ大賞」の2004年度受賞作です。
ホテル屋上で行なわれた珍しい観望会の印象を綴りました。名古屋市に賑わいを奪われている岐阜市ですが、名古屋や東京にはない魅力をいっぱい持っていると私は思っています。
残念なのは、岐阜市当局のエライさん方が、岐阜市の魅力をどれだけ理解しているのかということです。名古屋市や東京の真似をしても仕方ないのに・・・。

2007年02月25日

●随筆「わが青春のシュラフ」

 文章にとって、タイトルというものは非常に重要である。いわば文章の顔ともいえる。
 にもかかわらず、今、私は、この文章を書き出すにあたって、タイトルの選定にかなり苦労している。
 決まらないのだ。どうにもすっきりしたタイトルが出てこない。
 シュラフについて書こうと思う。それは決まっている。が、『私の愛○』というこの連載企画にそのまま当てはめた『私の愛シュラフ』では語呂が合わないし、かといって日本語で『私の愛袋』では意味不明であり、なにやらいかがわしい感もある。
 ともあれ、考えていても始まらないので、とりあえず、書く。

 私が使用している種々の天体観測用アイテムの中で、最も古くから使用し、かつ最も活躍しているのがシュラフ・・・寝袋だ。
 意外な感を持たれる方もいるだろう。天体観測のアイテムといえば、やっぱり天体望遠鏡じゃないのか、と。
 確かにそのとおりである。私も、過去に多くの天体望遠鏡を所有してきた。今も自宅には現役のもの、引退したものを含めて数台の望遠鏡が転がっている。
 が、実のところ、天体望遠鏡は、私たち天文屋にとって本当に必須のアイテムなのだろうか、それなしでは天体の観測はできないのだろうかと考えれば、そうではない。星座の観望はもとより、流星観測にしても肉眼で十分である。かえって望遠鏡を使わないほうが広い視界が得られて星空を壇能できることも多い。
世の中は豊かになったが、その分、街あかりの影響も深刻だ。空の暗い場所に自前の天文台を作れるような一部のリッチマンは別として、多くのアマチュア天文家はあちこちに遠征してのジプシー観測を強いられる。
そんなとき頼りになるのは、天体望遠鏡よりもサバイバルグッズである。特に防寒は重要だ。
 山奥に遠征した厳寒の夜、シュラフがなければどうなるか。
「車のヒーターをかけっぱなしにして寝ればいいじゃん」
 そう考えた人は、今のご時勢、人間失格である。地球温暖化、排気ガス公害といった地球環境への負荷に思い至らない人間は、少なくとも「光害で星が見えなくなった」と嘆く資格はない。
「宿に泊まればいいじゃない」
 そう考えた人。これも真の天文家とはいえぬ。宿に泊まる場合、門限を考えれば、観測できる時間はせいぜい午後9時までだ。気合の入った天文家は、夜明け近くまで観測し、寒さをこらえて寝なければならない。
 野宿にしろテント泊にしろ、山で凍死せずに眠るために必要なアイテム。それがシュラフなのである。
望遠鏡がなくても観測はできるし生死にかかわることもない。これが、望遠鏡よりもシュラフを天体観測の必須アイテムとして取り上げた理由である。
 シュラフの重要性をわかっていただけたことと思う。

 私のシュラフは、一見すると何の変哲もない青い綿シュラだ。
(語句説明:綿シュラ→中綿に羽毛や先端化学繊維を使用していないごく普通の綿を使用した安価なシュラフ。当然のことながら、かさばる割に保温性は低い)
 このシュラフを、私はこれまで10数年にわたって使用してきた。が、実はこのシュラフの歴史は更に遡ることができるのだ。
 私に叔父がいる。山岸某なる立派な名を有しているが、仲間うちでは「冒険好きのおじさん」としてつとに高名な人物である。叔父はかつて日本全国を歩き回り、山に眠り、波の音を枕としてきたが、この叔父が、若き日、愛用していたのが、現在、私の使用しているシュラフなのである。このシュラフは、若き日の叔父の夢と旅の記憶をそのままに語り伝えているともいえるのだ。
 叔父からシュラフを譲り受けて10数年、私も旅をした。波のしぶく孤島で、ローカル線のホームのベンチで、時には高山の強風雪の中で、このシュラフは私とともに星空を見上げてきたのである。若き日の叔父も、このシュラフにくるまって、一人、星空を見上げたこともあっただろう。
 叔父、私と二代に渡って酷使されてきたシュラフは、幾多の星霜を経て、決してきれいとは言い難い状態だ。あちこちがほころび、綿はつぶれ、寝心地も快適とは言えぬ。
 それでも、このシュラフにくるまり星空の下に横たわれば、何かしら安心するような心地がする。羽毛やゴアテックスの温かさにはほど遠いが、心の奥がほかほかするような気持ちになる。苦楽を共にしてきたシュラフに、もっとたくさんの星空を見せてあげたい、そんなことを考えながら眠りにつくこともしばしばだ。
 叔父から譲り受けたシュラフは、まさに天体観測における私の愛○グッズなのである。

 ここまで書いてきて、ようやくタイトルが決まった。
 どうだろうか。え? ちょっとカッコ良すぎるって?
 いいではないか。縁の下の力持ちであるシュラフにも、たまには光を当ててあげよう。

東大和天文同好会会誌「ほしぞら」NO.105(1989年2月発行)掲載分を加筆訂正 

2007年03月18日

●随筆「うすあかり礼賛」

 陰影の乏しい時代である。最近、ことさらにそう思う。街を歩けば、どの店もファッショナブルで意匠を凝らしている。テレビを見れば、まだ幼いとも言える娘たちが群れ集って踊り歌い、夜ともなれば、林立するコンビニと街灯が、都会や田舎にかかわらず闇を浸食している。
 何もかも、どこもかしこも明るいのだ。置物と見紛うばあさんが店番をしている商店は絶滅し、七十年代フォークのようなもの悲しい歌は流行らない。日没を迎えるよりも早く道路にも家の窓にも煌々と灯りがともされ、黄昏などという言葉は死語になりつつある。
 ちょっと前まで日本人は、寂とした秋の夕暮れや淡い月あかりを愛でることができる感性を持っていた。季節の移ろいや黄昏の薄闇を、心の襞に映して愉しむことができる能力を持っていたのだ。それは、生物が生存のために有している、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった五感から取得した物理情報を統合し、精選し、心というフィルターを通して自然の静謐な意志を汲み取る力だった。
 かつてはすべての日本人が有していたこうした能力を、現代の我々は急速に喪っているように思われる。とにかく便利なモノ、美味しいモノ、小ぎれいなモノ、新しいモノが欲しい、そのためにはお金が第一、自分が幸せになるためには周囲の人も自然も顧慮しない、明るく賑やかでさえあれば毎日が楽しい・・・。
 すべてを商品にしてしまう資本主義社会が行き着いた結果といえばその通りだろう。資源がなく狭い国土に人が満ちあふれているこの国を維持していくためには経済成長こそがすべてに優先される、そのためにはとにかくモノを、情報を売り続けなければならない、購買意欲をかき立てるためには、とにかく明るく賑やかに、毎日をハレの日に仕立てなければ・・・。
 そんな構図が透けて見える現代の日本だが、こうした状況を一語で表した言葉も、かつての日本人は知っていた。その言葉は「餓鬼道」という。もともとは地獄の一形態を表した概念だ。食べても食べても空腹感がなくならない、挙げ句の果てには他人の食い物や、さらには他人の肉体そのものまで飽くなき食欲の対象にしてしまう、これが「餓鬼道」に墜ちた人間の姿である。
 季節のあわいを感じ取り、そのことに愉しみを見いだす能力を喪失し(あるいは喪失させられ)、大手資本がこれでもか、これでもかと投入する商品に飛びつきながら、いくら買い物をしても心が満たされることなく、やがては心そのものさえ喪失して、ただ買い漁り喰い漁るだけの化け物に変化していく・・・。
 資本主義経済がおのずとこうした結末を導くのか、それとも目に見えない仕掛け人がどこかに存在するのかはわからない。それでも、日本人の半数以上が餓鬼に変化してしまったことだけは確かなように思われる。
 抗いがたい力に絶望したくなるが、それでも私は、日本人の心を信じたい。あらゆる事物に宿っている物言わぬ意志を知覚する繊細な力、そうした物言わぬ意志とことさらに諫うことなく、相和し協調してゆくことのできるやさしさ、そうした徳性は、戦後数十年の僅かな期間で完全に喪われるものではないと信じたい。
 こうした日本人の徳性を、偏狭なナショナリズムと混同している(あるいは意図的に結びつけようとする)一部の政治家がいるが、それこそ、もはや完全に日本人の心を喪失してしまった輩なのだろうと思う。
 物言わぬ意志は、草木にも山や川にも動植物にも道具にも、あらゆる存在に宿っている。薄明のあわいのなかで、闇を舞う蛍の光を見つめながら、そうした「いのちの声」を聞き分ける力を養いたい。そうした社会にしていきたいと思う。

2007年03月27日

●随筆「銀河鉄道に乗って遥かな旅へ」

 世は不景気である。娑婆の風は寒いし、懐はもっと寒い。どこもカネがないはずなのに、なぜか街灯は増え続ける。天文家の心は冷え込む一方・・・なんて情けないことを考えているばかりでは浮かばれない。
 こんな時こそ旅にでも出て日頃の憂さを晴らしたいもの。「そんなこと言ったって、ほんとにカネもヒマもないんだよお」などと愚痴らずに、空想の旅に出かけてみよう。星の名前の列車に乗って・・・。

 手元に時刻表があれば、前の方の「特急運転系統図」なる色刷りのページを開いてみてほしい。全国の特急網が描かれている地図と併せ、特急列車の一覧表が印刷されているはずだ。五十音順に並んだ列車名を見てゆくと、天体の名前を関した列車がいくつかあることがおわかりいただけると思う。
 旧国鉄では夜行列車に天体の名前をつけることが慣行となっており、遠距離の旅行といえば夜行列車が当たり前だった頃には、星の名前がついた急行・特急列車が雁行して運転されていたものだが、新幹線網の発達により夜行列車が次々に削減されている現在では、「星の列車」は数を減らしてしまっているのが実情だ。
 それでも、天文ファンであれば、一度はそんな列車に乗って星三昧の旅がしてみたいもの。そんなわけで、東海地方から北海道までの汽車旅をコーディネートしてみた。
 旅は道連れという。ぜひ一緒にご乗車いただければありがたい。ツアーの名称は『遥かな夜空へ、星づくしの旅』。

☆ 第1日目 尾張星の宮~東京
 始発駅は、尾張星の宮である。「ワシ、長く岐阜に住んどるが、そんな駅、知らんぞ」と言うなかれ。名古屋の隣にある枇杷島駅は皆さん、ご存知と思う。この枇杷島と中央線の勝川を結んでいるのが東海交通事業城北線であり、そんな城北線の駅のひとつが尾張星の宮である。
 近代的な高架の駅だ。しばし待つうち、列車がやってくる。が、何と、停車した列車は僅か一両、しかもディーゼルカーである。いきなりミステリー列車じみてくるが、この城北線、もともと貨物線であったためにそれほど旅客需用があるわけでなく、たった一両のディーゼルカーが往復しているわけなのだ。
 ともあれ、乗りこむ。暮れなずむ名古屋の街を高架から見下ろすうち、一駅で枇杷島、東海道線に乗り換えてまた一駅で名古屋に着く。
 名古屋市科学館でプラネタリウムを鑑賞してから夕食を食べる。天体にちなんで天むす、なんていかがでしょうか・・・いきなりお粗末。
 夕食に続いて少しだけアルコール燃料を補給し、真夜中の名古屋駅ホームに立つ。
 やがて青い車両を連ねた寝台列車がしずしずと入線。サイドボードには“銀河”の文字。おお、まさしく星のブルートレイン!
 二段式のB寝台で浴衣に着替え、旅の気分が盛り上がったのも束の間、何だかヘンだな、と思う。時刻表を開いても、こんな名前の寝台特急は載っていない。まさにミステリートレイン、と思ったところに車掌さんのアナウンス。
『本日は、急行列車銀河号をご利用下さいましてありがとうございます』
 そう、“銀河”は、今や数少なくなった急行夜行寝台列車。東京と大阪を結び、ビジネス客の利用も多い名門列車なのである。急行とはいっても、ベッドは特急と変わりない。カンカンカン・・・とドップラー効果で遠ざかってゆく踏切の音に旅情をかきたてられるうち、いつしか夢の中へ。

☆ 第2日目 東京~室蘭
 東京着、6時42分。東京駅内の銭湯で朝湯を浴びてから、中央線で武蔵境へ。バスに15分揺られれば国立天文台。昔は象牙の塔だった国立天文台も、今や様変わりして構内の見学自由である。65センチ屈折、大子午環など、文化財級の望遠鏡が緑溢れる構内に点在している。ふたたび中央線で都心へ戻り、夜まで都内の望遠鏡ショップ巡り。国立科学博物館で天文の展示を見るのもいいかもしれない。
 夜行列車が出るには早すぎるような夕方4時過ぎ。上野駅13番線に長大なボディを横たえる札幌行き寝台特急、“カシオペア”に乗りこむ。“銀河”ではチープにB寝台を選んだが、“カシオペア”は、個室寝台しか連結されていない超豪華列車である。ホテルなみのベッド、シャワーまでついた大名個室の窓から暮れてゆく東京を眺め、フランス料理のフルコースに舌鼓を打つ。ここで妙齢の女性でもいてくれると最高なのだが、まあシブい一人旅もよかろうと、一人納得するボクなのであった。
 そうそう、せっかく寝台列車に乗ったのだから、部屋を暗くして、窓から夜空を見上げてほしい。繁華な東海道を走る“銀河”に対して、東北本線を走る“カシオペア”の夜空は暗い。北の空にカシオペア座を探してみるのも一興だ。

☆ 第3日目 室蘭~札幌
“カシオペア”は札幌ゆきだが、途中の室蘭で下りる。かつて鉄鋼業で栄えた町の常として、がらんとした街路に風だけが吹いている。
 寂しい町並みをしばらく歩くと地球岬。星の旅にふさわしい名前の岬だ。ただし、読み方は“チキウミサキ”である。見晴るかす水平線は遥かに遠く、その名のとおり地球の丸さを実感できそうな光景が広がる。
 室蘭から札幌に向う。乗りこむ列車は“スーパー北斗”。JR北海道自慢の最新式振り子車両は、在来線最高レベルの130kmで見渡す限りの原野を疾走する。
 札幌では、札幌市天文台や科学館を見学するのもいいだろうし、普通列車で1時間ほどの小樽には、プラネタリウムを備えた小樽市科学館がある。途中には、ほしみ、星置という駅があり、何やら曰く因縁がありそうではあるが、列車から見る限りでは変哲もない住宅地である。
 再び札幌に戻り、泊。

☆ 第4日目 札幌~陸別
 札幌から千歳線、石勝線を走る“とかち3号”の客となる。帯広から乗り換える列車は、ただの普通列車ではない。根室本線をしばらく走った列車は、池田から晴れて急行に変身する。その名も“銀河”。1日目に乗ったブルートレインと同じ愛称ではあるが、こちらは白地に星のペイントを散らしたおしゃれなボディだ。
 池田からぐいと北を向いて走り始める路線名は“ふるさと銀河線”という。もと国鉄池北線を引き継いだ第3セクターであり、星をブランドイメージとして売り出しているローカル線だ。途中駅には、この路線を応援する会の会員名を刻んだ星形のボードが設置してある。沿線には、低い丘と原野がひたすらに続く。松山千春の故郷である足寄を過ぎ、やがてあたりが開けてくると陸別。
 星の町として有名な陸別町のポイントは、何といっても口径100cm望遠鏡を備えた陸別天文台である。オーロラの見える町としても知られる他、日本一寒い町としても有名。今夜は、100cm望遠鏡で、“しばれる”夜空を見上げてみよう。

 まだまだ旅を続けたいところだが、紙数が尽きた。続きはまたの機会に。
 空想の旅なんてつまらないと思われるかもしれない。けれど、こうして頭の中で旅のイメージをふくらませていればこそ、いつか本当に旅立つ日の感動が一層大きなものになるはずだ。
 こんな原稿を書いているうち、久しぶりに旅に出たくてたまらなくなってきた。暖かくなったら、列車に飛び乗り、気ままな旅に出かけてみよう。それがたとえ小さな旅でも、失われていた感性が確実によみがえるはずだから。

(スターライト・パーティー岐阜会誌 2003年 vol21掲載)

*「ふるさと銀河線」は平成18年4月で廃線となりました。
*小樽市科学館は現在リニューアル中です。
*列車の時刻は原稿執筆当時のものです。

2007年05月25日

●随筆「いも虫男の惨劇」

 天文という趣味は、ごくロマンチックなようでいて、実のところそうではない。
「眠い、寒い、貧乏」
 恐らく、この3語に天文という趣味の真実は凝縮されているように思われる。肉体的にも精神的にも辛く厳しいこの趣味を今後も続けていけば、遠くない将来に廃人状態になることは避けられないのではないかと危惧する日々である。
 かくの如く悲惨な天文趣味であるが、上述した三つのキーワードにもうひとつ、「痛い」という言葉を加えたい。

 あれは忘れもしない、みずがめ座η流星群観測明けの朝であった。
 私の他十数名のHASメンバーは、夜が明けてもまだシュラフにくるまったまま、ウダウダ、ゴロゴロと無為の時間を過ごしていたのであるが、やがて私はおもしろい遊びを発明した。
 おもしろいとは言っても、幼児性を多分に有している私がそう思っただけで、健全な精神の持ち主から見れば児戯に等しい、というよりも知能指数を疑われそうな遊びである。
「いも虫ごっこ」なるその遊びは、シュラフにすっぽりくるまったままピョンピョン跳びはねて周囲の会員を追い回すという、ただそれだけのものであり、これだけ書くと大抵の方は「なんだ、つまらない」と思われるに違いない。
 しかしながら、実際にこの跳ねるシュラフに追いかけられてみると、これが何ともいえず不気味である。さながら、いも虫が直立した姿で無言のまま迫ってくるそのさまは、手足がなく顔もほとんどみえないために、異様なほどの恐怖をかき立てられる。
 逃げ回る会員のようすに歓喜を覚えつつピョンピョン跳びはねていた私だったが、突然、グオシャッ、という音とともに眼前にHR10,000の大流星雨が出現した。
 一瞬、何が起こったのかわからなかったが、気がつくと私はアスファルトの上にうつぶせに横たわっており、他の会員たちがバラバラと駆け寄ってくるところであった。
 茫然自失の思いでのろのろと立ち上がった。世界が半分だけ妙にぼやけている。私は眼鏡のに手をやった。砕けたレンズがぱらぱらと地面に落ちた。
 右目の瞼の上がひどく痛い。そっと手をやると、ベットリとした血糊で指が染まった。
 この時になって、私はようやく事態を悟った。どうやらシュラフの裾に足を引っかけて、一瞬のうちに地球と激突したらしいのだ。
「へ、へへ・・・」
 照れ笑いを浮かべようとした。が、顔が引きつってうまく笑えぬ。いぶかしく思って顔を撫でてみると、右目の上が大きく腫れ上がっている。
 蹌踉として帰宅した私は、鏡を見て愕然とした。そこには、右目だけでなく、全体が腫れ上がった、ほとんどゾンビの如き二目とは見られぬ顔が映っているのであった。
 私は、慌てて顔中に赤チンを塗りたくった。結果、かえって出血多量のゾンビのようになり、その後1週間ほどは外出することもできない状態に陥った。
 
 天文は怖い趣味である。
 この文章を読んでいる諸兄も、あまり深みにはまらぬうちに、もっと健全な趣味に転向したほうが良いかもしれぬ。

東大和天文同好会会誌「ほしぞら」116号(1991年4月)掲載

2007年07月06日

●随筆「Bright Comet Memorial」

 彗星という天体が、これほどまでに天文ファンの関心を集めるのはなぜだろうか。
 百武彗星、ヘール・ボップ彗星と立て続けに明るい彗星が現れ、天文ファンが狂奔したことはつい先ごろのことだが、もしこれが彗星以外の天体だったら、はたしてこれほどの関心を集めただろうかと考えると、改めて彗星という天体の持つ魅力について考察せざるをえなくなってしまう。
 こう書くと、いかにも私が斜にかまえ、両彗星の観望に奔走した天文ファンを軽侮しているようにもとれるかもしれない。が、私にしても、百武彗星は1週間徹夜で、ヘール・ボップ彗星は1年近くもの間、追い続けた。
 今回、編集部から過去に見た大彗星についてのコメントを依頼されたが、それでは百武彗星、ヘール・ボップ彗星のいずれが上位かと問われれば、どちらの彗星にも違った個性があり、私としては彗星にランキングをつけることは困難である。この文章ではランキングにはとらわれず、彗星という天体が持つ独特の魅力について考えてみたい。

 まず、第一の魅力として、個々の彗星が持つ個性の強さがあげられるだろう。深夜の空に、サーチライトのごとき長大な尾をなびかせた百武彗星、都心からでも肉眼で見えたヘール・ボップ彗星、どちらも強烈な個性である。
 また、彗星は、その形状、明るさが著しく変化することが多い。百武彗星を例に取れば、近日点通過前
と通過後では、まったく異なった彗星のようである。
 さらに、早い時期から計算によってその現象が予報され、シミュレート可能な日食等の現象と異なり、まさに「彗星の如く」忽然と発見されることが多いのも魅力である。観測デバイスの進歩により、最近ではかなりの距離で発見され、相当のスパンで観測可能な彗星が増えてはきたものの、百武彗星は発見からわずか1ヶ月で驚くべき大彗星に変貌を遂げた。
 その発見に、非常に人間臭い「ドラマ」がつきまとうことも、大きな魅力のひとつだろう。眼視発見のみの時代はことさらだったし、写真やCCDによる発見でも、それなりのドラマが語られる。
 最近は徐々に合理化(?)の方向に向っているようだが、発見者の名前がつくことも魅力だ。小惑星にも発見者に命名権が与えられるが、発見者本人の名前がつくことはないし、彗星に比べるとやはり地味
な印象は否めない。(ただし天文学的には、彗星と小惑星は同一と言ってもいい天体である。近日点距離の遠近、揮発性物質の多寡によって小惑星に分類された「彗星」は、まさに気の毒というほかない。)
 もっとも、こうした彗星の魅力については、これまで多くの人によって語られてきた。列挙してみても新鮮味を感じられない方も多いかもしれない。
 そこで、拙稿では視点を変えて、これまであまり語られることのなかったもうひとつの魅力を挙げてみたい。

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「大彗星は、人生のメモリアルである」
 こう言うと、大袈裟に過ぎるだろうか。
 自分の見た彗星の魅力を語るとき、その人は必ず、当時の情景を心に思い描きながら話すだろう。
 ある人にとっては、ハレー彗星が輝く南半球の美しい島で挙げた結婚式のシーンがオーバーラップするかもしれないし、またある人にとっては、長く困難な山行の果てにたどりついた氷雪の山頂で見た、明け方のヘール・ボップ彗星が脳裏に浮かぶかもしれない。
 大彗星はなぜか3月、卒業の季節に現れることが多いから、実らずに終わった淡い初恋の思い出を重ねる人もいるだろう。多くの友と語らいながら見つめた彗星の姿を想起する人もいるだろうし、初めてカメラにおさめた彗星の写真を、思い出の一枚として大切にしている人もいるかもしれない。
 
 彗星はいつ出現するかわからない。これは人生も同じである。人は成長し、学校や職場でさまざまな経験をし、予期せぬ出会いと別れがある。そして、星が好きな人にとって、大彗星は必ず、そうした人生の一時期とオーバーラップして記憶される。
 もちろん、大彗星の出現は、必ずしも人生の輝ける時と一致するとは限らない。失意のなかで見上げた
彗星の姿は、その人が年老いてもなお、ある翳りと虚ろさを投影させて思い起こされるだろう。
 初めて見た彗星は、その人にとって宝物だ。たとえそれが暗く小さな彗星でも、初めて肉眼で見つけた彗星の記憶は、後に見た大彗星に優るものかもしれない。
 星好きな人にとって、彗星の記憶は、その人が刻んできた人生の時々刻々である。
 もっと長いスパンで見れば、人類の歴史と大彗星の記憶は相対して語られる性格をもっている。だから
こそ人類は、彗星という天体に太古の昔から、限りない魅力と畏れを抱いてきたのではなかったか。

 私にとって、たとえばスイフト・タットル彗星は、東京を離れ、慣れない岐阜の地で夢と不安との葛藤の中で観測した彗星であったし、百武彗星やヘール・ボップ彗星は、私の観測活動や勤務先に関する評価と方向性がある程度、固まってきた時期に出現した。
 もっと過去の彗星に目を向ければ、小学生の頃、東大和天文同好会の創立メンバーたちと、近くの学校の非常階段で毎夕、追いかけたのがコホーテク彗星だったし、山梨県小淵沢町に建設した北巨摩観測所が開所してすぐに明るくなったハレー彗星は、観測所開設に向けて奔走したあの頃の記憶と重なっている。
 
 そして、あえて私にとってナンバーワンランキングの彗星といえば、やはりウェスト彗星をおいて他にない。壮観という意味では百武彗星に、明るさという意味ではヘール・ボップ彗星に比肩する彗星だったが、何よりも10台の半ばという最も感受性の鋭い時期に出現したことが、私にとって同彗星をイチ押しに
させる大きな要因となっている。
 真っ赤に燃えた地平線に、雄大な尾をたなびかせた3月の明け方の情景は、今でも青く透明な記憶として私の脳裏を離れずにいる。

東大和天文同好会会誌「ほしぞら」140号(1997年9月発行)掲載
写真:近日点通過後の百武彗星(400mmF4屈折)

2008年01月08日

●冬の代表的な星座「オリオン座」

 豪華絢爛な冬の星座の中でも、もっとも美しいのはやはりオリオン座だろう。オリオン座は、夕方には東の空に昇り始め、今の時期なら午後9時半ごろにはほぼ真南に昇りつめる。
 全体としては三つ星を真ん中に配した四角形をしており、左上には赤い1等星のベテルギウス、右下には青白い1等星のリゲルが輝きを競うかのようにきらめいている。三つ星の下には縦に並んだ小さな三つ星が見えており、これは小三つ星と呼ばれている。この小三つ星の真ん中の星は、目がいい人ならば、
ぼんやりぼやけて見えるのだが、これは実は星ではない。オリオン座大星雲と呼ばれる星雲(宇宙空間のガスの塊)である。

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 ベテルギウス以外の主要な星は、はるかな過去、この大星雲から生まれた星であると言われている。オリオン座の星々が宇宙空間で描いている運動の方向を逆にたどると、そのほとんどがオリオン座大星雲に集まってしまうことからわかってきたのだが、最近の研究では、大星雲の中では今も、新しい星が次々に産声を上げているらしい。オリオン座大星雲は、星のお母さんというか、とにかくそんな存在らしいのだ。
 ところでオリオン座には、もうひとつ、たいへんに有名な星雲がある。M78星雲、そう、ウルトラマンの星だ。M78星雲は、三つ星のいちばん左側の星のすぐ上に実際に存在する。望遠鏡を向けるとウルトラマンが見える・・・はずはなく、オリオン座に実在するM78星雲とウルトラマンは、本当は何の関係もない。M78もやはりガス星雲である。それもほとんど真空と言ってもいいくらい、希薄なガスの集まりだ。いかにウルトラマンといえども、こんな薄いガスの中では暮らしていけませんよね。

(初出:1992年12月 岐阜新聞連載「岐阜星見人」)
写真:西美濃天文台のドームスリットから見たオリオン座

2008年01月22日

●いちばん明るい星、シリウス

 星座を作っている星のうちで最も明るい星を1等星と呼んでいる。以下、2等星、3等星と肉眼では6等星まで見ることができるわけだが、暗い星ほど数が多く、1等星の数は全天でも21個しかない。
 それらの1等星の中でもいちばん明るい星が、冬の星座の一つ、おおいぬ座にあるシリウスだ。おおいぬ座は、今ごろだと午後10時ごろに真南に来るので、シリウスのずば抜けて明るい輝きはいやでも目に留まるだろう。
 シリウスの明るさは、実際、近くにあるオリオン座の1等星リゲルよりも6倍も明るい。シリウスという名には「焼き焦がすもの」という意味があり、中国では古くから「天狼星」と呼んでいた。大陸の広大な平原にギラギラと光る狼の目玉と見立てたのだろうが、実に適切な命名である。

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 シリウスがなぜそれほど明るいのかといえば、距離が大変に近いためだ。地球からの距離は8.7光年、肉眼で見える星の中では二番目に近い星である。もちろん星自体も太陽の40倍という明るさで輝いており、大きさも太陽の1.7倍、表面温度は1万度以上という立派な星である。
 最近は街明かりが非常に増えて、街中では暗い星が見づらくなったが、それでもこのシリウスの輝きだけは、これから先、どんなに環境悪化が進んでも見えなくなることはあるまいと思われる。もしシリウスが見えなくなるほど空気が汚れ、無駄な照明が増えたとすれば、そのときは人類の滅亡も近いといっていいだろう。

(初出:1993年1月 岐阜新聞連載「ぎふ星見人」)
写真:シリウスの輝き(西美濃天文台60cm反射直焦点)

2008年02月07日

●真冬に見上げる夏の星座

 立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒さは続く。もう冬はうんざりだという人も多いのではないだろうか。南半球へでも旅行すればストレスも吹き飛ぶのだろうが、そうもいかない人は少し早起きして、明け方の星空を眺めてみるとよい。
 星は一晩のうちに少しずつその位置を変えていく。これは地球が自転していることによる現象だが、たとえば今の時期なら、夜8時ごろ真南に見えているオリオン座は、時間が経つにつれて西へと傾き、真夜中過ぎには地平線へと沈んでしまう。特に夜が長い冬は、一晩中がんばって起きていると、太陽の方角にある一部の星座を除いて、四季の星座を一晩のうちに見ることができるという楽しみを星見人に与えてくれる。

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 今の時期、明け方の空はすっかり夏の星空だ。南東の方角には夏の代表的な星座・さそり座が大きなS字のカーブを描いて昇り始め、さそり座から天の川をたどっていくと、北東の空にはこと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブが描く夏の大三角を見つけることができる。
 身を切る冷たい風に吹かれながら、こうした夏の星々を見上げるのは、季節を先取りした嬉しさを感じるものであるし、真冬の空に見る夏の星座は不思議にファンタジックな印象を与えてくれる。逆に、真夏の明け方、東の空からオリオン座が昇っているのを見つけたときも同様で、長い夏の倦怠を忘れさせてくれるひとときだ。
 黎明の静寂の中、一人見上げる新しい季節の星々は、忙しい日常の中で忘れかけていた何かを、人の心に呼び覚ましてくれる気がする。

(初出:岐阜新聞連載「ぎふ星見人」1993年2月16日)
写真:いて座の天の川

2008年03月24日

●新緑の天文台で(前編)

 先日は、前後編に分けて国立天文台の訪問記を書いた。どうせなら、ということで、今回も国立天文台ネタを書く。それも今を去ること25年前、1983年に、「象牙の塔」であった国立天文台に招かれて第一線の天文学者と議論を交わした話である。

 東大和天文同好会という会がある。1973年に、現在、愛知県東栄町の「スターフォーレスト御園」で天文担当として活躍しているS氏と私が創立した天文同好会だ。
 当時、東大和天文同好会では流星の観測が盛んであった。年間30夜以上の観測を5年間継続して、日本流星研究会から表彰状をいただいたほどであるから我ながらがんばっていたものだと思う。
 当時の流星観測は、肉眼で流星の数を数え、星図にプロットする眼視観測が中心だった。私たちも、若さにまかせてがむしゃらに観測を行っていたのであるが、観測を続けるうちに眼視観測に関していくつも疑問が湧いてきた。
 眼視観測では、観測時の最微等級、透明度、雲量などの条件によって、観測可能な流星数に大きな差異が出る。観測した流星数そのままでは統計処理の対象になり得ない。
 そのため、ナマの流星数にいくつかの係数をかけて、雲や障害物がなく6.5等星まで見える理想的な夜空のもとで観測したであろう流星数に補正して同一条件で互いの観測を比較できるようにする。
 また、流星群の場合は、輻射点高度が高くなるにつれて観測可能な流星数が増加するはずであるから、異なる時間帯の観測を比較するために輻射点高度の補正も行う。

650R1.JPG

 補正に使用する係数については、昔から多くの学者が研究を重ねてきた。どれも完璧とはいえないが、いずれにしてもナマのデータでは比較にならないため、正しい流星数と最も近似の数値が得られると考えられていた係数を採用していたのである。
 私たち東大和天文同好会のメンバーが疑問を感じ始めたのは、この係数についてだった。
 常々、例会などで話し合ってきた係数に関する疑問を、私たちは会誌の「ほしぞら」に座談会という形でまとめた。座談会でわかりやすく疑問を提示した上で、当時計算課長だったY氏が数式とグラフで理論的裏付けを示した。
『流星の眼視観測に未来はあるか』という、いささか挑発的な座談会のタイトルがいけなかったのだろう、天文雑誌の編集部で会誌を読んだ国立天文台のT先生から面談したいという要望が舞い込んだ。
 T先生といえば、アマチュア出身ながら観測派天文学者の旗手としてバリバリ業績を上げ、アマチュア向けの著書も多い有名人である。
 そんなT先生のお誘いに私たちは勇躍した。かくなる上はT先生を何としても論破し、そろそろ沈滞ムードが漂いつつあった流星観測を根本から変革してやろうと大いに意気込んで、5月のある日、東京天文台を訪れたのであった。

写真:国立天文台の65cm屈折望遠鏡。大きすぎて全部が写りませんでした。

2008年03月26日

●新緑の天文台で(後編)

 T先生の第一声は「いやー、キミたち、バイクで来たの?若いねー」だった。
 そう、象牙の塔であった天文台に、こともあろうに私たちはバイクを連ねて押しかけたのであった。
 今でこそ天文台内の建物は改築され、近代的な外観となっているが、当時はどの建物も年月を経て黒ずみ、うっそうと茂った樹木に覆われて、よく言えばレトロチックな、悪く言えば魔術的な雰囲気を漂わせていた。
 そんな建物の一室に私たちは誘われた。磨きこまれた古めかしい調度品と古色蒼然とした書籍に囲まれた小さな部屋だった。
 T先生は私たちをソファに座らせると、自らは事務椅子に腰を下ろした。
「いやあ、ボクも若い頃はずいぶん流星を観測したもんだヨ」
 ニコニコ笑って言う。黒縁眼鏡にライオンの如き蓬髪。
 書棚から一冊の本を取り出す。
 いきなり来た。小槇孝二郎著の「流星の研究」。山本一清先生が序文を書かれている幻の稀覯書である。
 本をめくりながらT先生は、日本の流星観測史を語り出す。
 肝心の理論にはなかなか進まない。
「その頃の日本は欧米の天文学を取り入れるのに必死でね。流星も先端分野だったんダ。こうして先達が身を削る苦労を重ねたからこそ、世界に誇れる現代日本天文学があるわけだナ」
 延々と天文学史の講義が続いた後で、
「で、キミたちの研究なんだけどね」
 ようやく本題に入ったときには、優に1時間は経過していただろう。
 一隅にかけられた小さな黒板に図を示しながら、T先生は丁寧に私たちが問題にしている係数のおさらいをする。それに対して、私たちも黒板に図示しながら反駁する。
 いや、理論的に反駁していたのは、正確に言えば計算課長のY氏だけだった。私を含めたあとの4人は、ちゃちゃを入れていただけだったかもしれない。

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 若いY氏の理論は精妙で攻撃的だった。T先生も何度か腕を組んで考えこんだ。
 いつしか、小さな窓から差しこむ日ざしが薄くなりはじめていた。私たちの頭の中は流星一色に染まっていた。ふだんは使用していない脳の奥深い部分が懸命に働いているのがわかった。ひとつの理論を追いこむ知的快感に、いつのまにか私たちは酔っていた。
 T先生の飾り気のない言葉が、心の奥底にしみこんでくる。正確で理論的で、それでいて文学的香味に溢れた言葉。
 長い講義が終わったとき、5月の長い日は暮れかけていた。
「キミたちの言うことはよくわかった。すばらしい。感動したヨ」
 先生は、ゆったりとした口調でそう言うと、立ち上がった。
「流星の研究」を丁寧に書棚に戻す。
「ボクはね、キミたちのような気鋭のアマチュアと話すのがすごく楽しいんだ。ボク自身も勉強になるしね」
 ふたたび椅子にかけた先生は続ける。
「キミたちのようなアマチュアこそが21世紀のこの国の天文学を担うのだとボクは思っています。山本一清先生や小槇さんが創り上げた日本の流星天文学を、これからも受け継いで発展させて下さい。そのために係数をはじめ、観測方法の一層の研究が必要です。ただ、若い人は往々にして理論に溺れてしまいがちだ。学問とは日々、真の値に向かってデータを近似させていくことです。理論にかまけて観測を忘れないで下さい。観測をしながら正しい理論を探る努力を続けて下さい。キミたちには未来がある。どうか精進して下さい。今日は楽しかった。ありがとう」
 部屋を出るとあたりは夕暮れだった。むせるような新緑の匂いだけが薄暗い天文台の構内を満たしている。
 私たちの誰もが言葉少なだった。先生がなぜあれほど長い時間を先達の歴史に費やしたのか、今となってはわかりすぎて切ないほどだった。
『キミたちのいうことはよくわかる。補正係数については議論の余地がまだまだあるしどんどん研究してほしいと思う。ただ、正確を期すあまり、いたずらに悲観的な学説や理論をふりかざして、ただでさえ減少しつつある観測者を減らすだけの結果をもたらすことは
避けてほしいのだ。前向きに観測をして研究をして、明治以降、営々と観測を続けてきた先人の業績を引き継いでほしいのだ』
 半日間の集中講義を通して先生が言いたかったことはこれだった。アマチュア出身だからこそ先生の言葉は私たちの心に沁みた。
 バイクのエンジンをかけ、私たちは走り始めた。どこまで走っても新緑の匂いが追いかけてくる夕暮れだった。

写真:アインシュタイン塔

2008年05月20日

●随筆「遥かなり図書館への道」

 週末のたびに図書館へ行き、カードの冊数いっぱいに借りてくる。それらの本を貪るように読み、翌週末にはふたたび図書館へ・・・。
 読書好きな人であれば、珍しくないパターンだ。だが、ただ図書館へ行くためだけに、往復数十キロの道のりを走らなくてはならない境遇の人間は、そうたくさんはいないのではないだろうか。
 9年前に、東京から岐阜の山間にある小さな村に越してきた。自然豊かな環境は私を満足させてくれたし、食料品を売っている店が村に一軒しかないこともさして不便とは思わなかったが、近くに図書館がないことだけには弱ってしまった。図書館と本屋がない生活など、私にとってはおよそ想像の埒外だったからである。
 子供の頃から、いわゆる活字中毒だった。暇さえあれば図書館と本屋に入り浸り、トイレに行くときも食事中も、果ては風呂に入るときまでも本を読んでいた。中学在学中には学校図書館の本をあらかた読みつくしてしまい、図書担当の先生を呆れさせたほどである。
 そんな私であるから、村に図書館がないことを知り、まず始めたのが本屋を探す作業であった。買い物や所用で街に出るたびに本屋を探すわけだが、その結果判明した事実に、私はもう一度愕然としなければならなかった。往復五十キロ圏内には、ほんの数軒の本屋しかなかったのだ。
 しばらくはそれらの本屋に足繁く通う日々が続いた。しかし、考えてみれば、たとえば文庫本を一冊買うだけのために往復四十キロ以上の距離を走らなくてはならないのはまことに不効率なことである。同じ距離を走るにしても図書館を利用できれば、蔵書数は町の本屋に比べてはるかに多いし、何よりも財布の中身を気にすることなく何冊もの本を好きなだけ読むことができる。
 周辺の町に立派な図書館があることは知っていた。しかし、その町の住民以外の者が図書館を利用することができるのだろうかという疑問が、そうした図書館を訪ねることを逡巡させていた。
 とはいえ、活字への欲望は募るばかりである。私は思い切ってある町の図書館を訪れ、
「この町に住んでいなくても利用できますか」と尋ねてみた。
「いいですよ。郡内の方であればどなたでも利用できます」
 にっこりとほほ笑みながら答えてくれた受付の女性が格別美しく見えた、と言ったら失礼かもしれない。が、それ以来、郡下の図書館数館を掛け持ちしながら、往復数十キロの道のりを走る週末が続いている。
 私にとって、図書館は活力の原点であり、知恵と不思議がいっぱいに詰まった魔法のお城だ。目移りしながら本を選ぶひとときは、田舎暮らしゆえに一層至福の時間なのである。

*だいぶ以前、まだ旧藤橋村在住時に図書館関係のパンフレットに書いたエッセイです。田舎暮らしで は、図書館へ行くのもままならないということを知って欲しくてこのブログに再掲しました。
今でも毎週、図書館へ行って5~10冊ほど借りてきます。それを一週間で読んで、また新しい本を借り るということの繰り返しをしています。
図書館でも本屋でも、本に囲まれているだけで幸福を感じてしまいます。

2008年06月05日

●星座あれこれ

★星座の数は何個? 
 皆さんは、星座の数がいくつあるのか知っていますか。次のうちから選んでみてください。答えは、この文章の最後に書いておきます。
① 48個 ②88個 ③108個 

★どんな星座を知っていますか。
 まずは、有名なところから・・・。 
 さそり座、みずがめ座、おとめ座・・・。これらは、星占いの星座ですね。正確には、太陽が一年かけて空を動いてゆく通り道にあたる星座で、「黄道12宮」ともいいます。   
 オリオン座、はくちょう座、カシオペア座。星占いには出てきませんが、それぞれ季節を代表する形のわかりやすい星座です。
 もちろん、人知れずひっそりと輝いている星座もあります。うさぎ座、かんむり座、いるか座などは、そんなかわいらしい星座です。
 え?北斗七星?うーん、残念ながら、これは星座ではなく、おおぐま座のしっぽにあたる星の並びをさしています。夏に見える、いて座には、南斗六星という北斗七星と良く似た星の並びもあります。

dondon1.jpg

★ ちょっと変わった星座 
 さんかく座。あまり明るくない3つの星が小さな三角形を作っています。ただそれだけ。
 とも座、ほ座、りゅうこつ座、らしんばん座。冬から春、南の空に見えるそれぞれ大きな星座ですが、もともとはひとつの星座でした。あまりに大きすぎるから、という理由で4つに分けられてしまいました。

★ うしなわれた星座
 今ではもう、なくなってしまった星座もあります。たとえば、ねこ座。
 ラランドという学者が作ったものですが、その理由が「私は猫が大好きだ。だから星座を作った」というもの。さすがにこんなわがままは通らず、ラランドが死去するとすぐに、登録から外されてしまいました。
 
長い歴史が作り上げた星座には、さまざまなものがあるのですね。 

*星座の数=88個が正解です。108個は除夜の鐘の数ですョ。

初出:広報ふじはし連載「ふじはし星だより」2001年3月号
写真:昇るオリオン座(前景は揖斐川町鶴見にある橋です)

2008年07月01日

●星の大きさはどのぐらい?

 観望会で星を見て貰っていると、「星って地球よりも大きいのですか」とか「太陽と地球はどちらが大きいのですか」とよく聞かれます。
 以前、星の大きさについて旧藤橋村の広報紙に書いた文章がありましたので以下に再掲します。

         * *
 
 夜空に輝くたくさんの星。目で見ると小さな光の点に見えますね。
 もちろん、星の正体は針の穴のような光の点というわけではなく、地球や太陽と同じような大きな球形をした天体です。
 では、それぞれの星は一体どのくらいの大きさがあるのでしょうか。

■恒星と惑星
 夜空に輝く星には、大きく分けてふたつの種類があります。ひとつは太陽と同じく自分自身で光り輝いている恒星、もうひとつは地球と同じく恒星の周りを回っている惑星です。恒星と惑星を比べると、一般的には恒星の方がはるかに大きく、太陽系の惑星の中でいちばん大きな木星でも地球の11倍、太陽は地球の109倍の直径をもっています。

■恒星の大きさ
 恒星、というと難しそうですが、星座を作る星はみな恒星です。地球は、そんな恒星のひとつである太陽の周りを回っているのですね。
 地球の109倍の直径をもつ太陽はとても大きく思えますが、恒星の中では小さ目の部類に入ります。
 星占いで有名な「しし座」のレグルスという1等星は、太陽の4倍弱の直径です。
 レグルスはまだ小さい方で、夏の代表的な星座「さそり座」のアンタレスは、太陽の230倍の直径をもち、冬の代表的な星座である「オリオン座」のベテルギウスにいたっては、太陽の550倍の直径があります。
 もちろん太陽より小さな恒星もあり、シリウスとペアになってお互い回りあっている「シリウスの伴星」は、地球の2倍弱ほどの直径しかありません。
 肉眼や小さな望遠鏡では見ることができませんが、最近では木星の10倍程度の直径をもつ「褐色わい星」という天体も見つかっています。自ら光り輝くことこそありませんが、通常の惑星にも分類されない「恒星と惑星の中間」の天体として注目されています。

初出:「広報ふじはし」2001年10月号

2008年07月21日

●夏の夜空を見よう!

 梅雨が明ければ、夜空は夏の星座でいっぱいです。蒸し暑い夜には、夕涼みを兼ねて星空に親しんでみてはいかがでしょうか。夜の風を感じながらのんびりと星空を見上げるひととき・・・最高に贅沢な時間かもしれません。そんな星空を楽しむためのノウハウと、この夏の注目現象をご紹介します。
 
■ 月あかりと街あかりは大敵
 とはいえ、実際の夜空で星や星座を探すのはなかなか難しいもの。当り前のことですが、天気の良い日を選びましょう。月あかりのない晩を選ぶことも重要です。この夏は8月2日が新月ですから、その頃が星空を楽しむチャンスということになります。周囲に明かりが少なく、視界の良い場所を昼間のうちに探しておきます。
 月がなく快晴の晩であっても、街灯やネオンが溢れた街中では暗い星が見えません。できれば山や高原へお出かけになると、降るような星空に出会えます。

■ 1等星を見つけよう 
 星座を形づくる星のうち、もっとも明るい星のことを1等星といいます。空の明るい街中でも、1等星なら見つけることができます。 
 すっかり暗くなった時刻、東の高い空を見上げてみましょう。三つの1等星が描く大きな2等辺三角形が「夏の大三角」です。一番高い位置にあるのが織姫星として知られる「こと座」のベガ。三角形の頂点に光るのが「わし座」のアルタイル、彦星です。もうひとつが「はくちょう座」のデネブといいます。南の空低くに光る赤い1等星は、夏を代表する星座「さそり座」のアンタレス。西の中天に輝くオレンジ色の1等星は「うしかい座」のアルクトゥールスといいます。
「夏の大三角」から「さそり座」にかけて天の川が流れており、空の暗い場所では素晴らしい眺めですが、街の中ではほとんど見えません。双眼鏡や望遠鏡で天の川を見ると、無数の星が集まっていることがわかります。

per meteor1.jpg

 
■ 流れ星を見るチャンス!
 お盆の頃、年間で最も活発な流星群であるペルセウス座流星群が活動します。今年は月齢が11、真夜中を過ぎれば月明かりのない空で観察ができます。良く晴れていれば街中で一時間に20個程度、山間部では一時間に50個以上の流れ星を数えることができそうです。最もたくさん見えるのは、13日の午前2時頃から午前5時頃まで。北東の空から放射状に流れ星が飛び出します。時には「火球」と呼ばれる非常に明るい流れ星も出現します。
 視界の良い場所で横になって見ると良いでしょう。この流星群を見るためだけでも、山や高原へ出かける価値はありますヨ。

初出:「西美濃わが街」2005年8月号
今年の月齢等に合わせて一部書き換え。
写真:ペルセウス座流星群の火球。地面が照らされるほどの明るさでした。(撮影:東大和天文同好会)

2008年10月26日

●孤高な輝き「フォーマルハウト」

 冬や夏に比べると、秋の星空はどことなく寂しく感じられる。理由は明るい星が少ないからで、恒星のうちで最も明るい1等星が秋の夜空にはひとつしかない。
 この時期、夜の8時ごろ南の空を見ると、ぽつりと輝く明るい星が目にとまる。秋の夜空で唯一の1等星である「みなみのうお座」の「フォーマルハウト」だ。「魚の口」という意味のあるこの星、全天で21個ある1等星のなかでも18番目という明るさの上、南に低いので、何かと地味な印象の星である。しかし、その実態は太陽の15倍もの大きさがあり、1等星の中では4番目に太陽に近い恒星だ。

 中国ではこの星のことを、唐の都、長安の北門という意味の「北落師門」と呼んでいた。「北落師門」の詳しい意味や解釈はさておき、どことなく秋の夜空にぽつりと光るこの星の、孤独で寂しげな印象をよく表しているように思われる。日本では昔から「秋のひとつ星」などと呼ばれ、これもまた簡単明瞭で、この星のたたずまいに相応しい名前である。

 冬や夏の賑やかな夜空も素晴らしいが、秋も深まり、冷たい風に吹かれながらフォーマルハウトの孤高な輝きを見つめていると、去りゆく季節の寂しさと、これから訪れる厳しい冬の予感をにわかに身近に感じてしまう。移ろう季節を天界に見いだすのも、星も見る楽しみのひとつである。

初出:岐阜新聞連載「ぎふ星見人」(1992年11月3日)

2008年11月16日

●随筆「この秋に」

秋である。いや、もう晩秋といっても良いだろう。
 忙しさにかまけて、このところ星を見る機会も減ってはいるが、それでも会社の帰路など、枯れた梢ごしに、オリオン座やプレアデス星団がすっかり高くなっているのを見ると、知らぬ間に身辺から遠のいていた季節感が、ひととき、鮮やかに甦るのを感じる。

 自宅の庭先で、かさこそと枯れ葉の落ちる音を聴きながら、東天高く昇ったプレアデス星団に望遠鏡を向け、季節の移ろいを全身で感じ取っていた幼い頃。星空も自然も、今よりはるかに身近な存在だった。
 あの頃、いつも感じていたある種の透明な感覚は、今も決して鈍磨しているわけではない。にもかかわらず、そうした感覚からすっかり遠のいてしまったような気がしてならないのは、私の内面にいつのまにか降り積もった微細な粒子に似た何かが、感性の窓を知らず知らずのうちに覆い隠してしまっているからだろう。
 
 人間は環境に適応しやすい動物である。置かれた環境が自らの価値観にそぐわないものであるとしても、いつのまにかその環境に慣れ、順応してゆく。
 心ある人は、与えられた環境と自己の価値観のわずかなギャップに気づき、抵抗を試みる。だがそうした抵抗が成功することは少ない。多くの人は、自らの内面に日常という粒子を分厚く積もらせて、いつしかその中に埋もれてゆく。

 そうなってはならないと思う。
 年齢を重ねるにつれ、分厚く降り積もった粒子に内面の輝きが埋もれてしまうことは避けえないとしても、少しでも抵抗を試み、感性を磨いてゆかねばと思う。

 11月、星空は一足早く冬の装いである。凍てついた夜空に瞬く星ぼしは凛烈とした輝きを放ち、心の表面に降り積もった日常を吹き飛ばしてくれるかのようだ。
 少し夜が更ければ、街中でも驚くほど美しい星空を見ることのできるこんな季節、透徹した夜空を見上げ、ひととき、自らの価値観との対話を試みるのも良いのではないか。
 
初出:東大和天文同好会会誌「ほしぞら」NO.93(1986年11月号)


*かなり以前、天文同好会の会誌に寄稿した文章です。
年をとるということは、まさに日常という粒子の中に身も心も埋没してゆくことなのだと、この文章を書いてから20年余を経た今、しみじみと思います。
この年齢まで自分は価値観に従って生きることができただろうか、少しでも何かを成し、生きてきた証を残すことができただろうか、いつもそう考えています。
所詮、人の一生など短く儚いもの、ことさらに何かを成そうなどと考えず、日常を大事にして穏やかに平凡に生きることができればそれで良いのかもしれません。
でも、生まれてきた以上は、たとえ自己満足だとしても少しでも人と違う何かを成し遂げたい、そう思います。

2009年03月11日

●随筆「星のふる里に生かされて」

先日、岐阜県文芸祭で、ふたつの賞を受賞したことを書きました。
今回ご紹介するのは、そのうち「飛騨・美濃じまん部門」で奨励賞をいただいた随筆です。
東京から岐阜県に移住後、十数年住んだ旧藤橋村の星空を自慢する内容です。

 ☆ ☆ ☆

『藤橋村、全国3位の美しい星空』
 手元にある新聞記事の見出しだ。平成5年の記事だから、もう15年も前のことになる。
 新聞記事は、環境庁(当時)が、星がどの程度見えるかによって大気の透明度を計測する「全国星空継続観察」という調査を行なった結果を伝えたものだ。村職員としてこの調査に取り組んだ私としては嬉しくないはずがなかった。私の観測結果によって、旧藤橋村が全国で三番目に星の美しい所として認められたわけなのだから。

 調査の前年、家族とともに東京から旧藤橋村へ移住してきた。村営の天文台で仕事をするため、東京で勤めていた会社を辞め、清水の舞台から飛び降りる気持で移り住んだのである。調査に参加したのは移住して半年後、まだ期待と不安が交錯している時期だったから、なおのことその結果が嬉しかった。

 それ以来、私は精力的に天文台の仕事に取り組んだ。旧藤橋村は、星空の美しい場所として全国的に知られるようになった。星空を求めて天文台を訪れる人に星空を案内し、そうしたお客さんがいない晩には、自分の観測テーマに没頭した。
 調査が示したとおり、旧藤橋村の星空は掛け値なしに美しかった。彗星の木星衝突、2年続けての大彗星出現、雨のように降った「しし座流星群」と、大きな天文現象が連続したのも、ますます私が村の星空に惹きつけられる結果となった。一世紀に一度起こるか起こらないかの現象が、いずれも私の移住を待っていたかのように立て続けに起こったのである。

 いつか私は、会う人誰もに、村の夜空の美しさを語るようになっていた。
「ぜひ村へ来て下さい。都会では絶対に見ることのできない星空が出迎えてくれるはずですから」
 村の職員という仕事上からではない。自分が住み、勤めている村の星空が本当に誇らしかったからこそ、ごく自然に『自慢』が口をついて出てしまうのである。

 旧藤橋村は、揖斐川最上流部に位置している。山に遮られて星を見る支障となる街あかりは一切見えない。
 春、雪解けを待ちわびるように、しし座が東の稜線に顔を覗かせる。水蒸気が多く幾分潤んだ大気の下で仰ぐ春の星座は、しっとりとした情感を漂わす。
 夏、天頂から南の山稜にかけて流れる天の川の豪快さはすばらしい。南天低くには、さそり座のアンタレスが夏らしい真っ赤な輝きを放っている。
 あれほど溢れていたキャンプや行楽の人が嘘のようにいなくなる秋、星空も静けさを取り戻す。ペガスス、アンドロメダといったギリシャ神話を彩る星座たちが穏やかな輝きで夜空を彩る。
 冬は雪の季節だ。ときに2メートルを越える積雪を見ることもある。が、雪の止み間、たまさかに晴れた晩に見上げる星空は豪華という表現を通り越して戦慄を覚えるほどである。オリオン座をはじめ明るい星が多い冬の星座たちがぎっしりと凍てついた夜空を埋めている。

 そんな四季の星空を見上げていつのまにか15年が過ぎた。星空は変わらないが、藤橋村は町村合併で揖斐川町となり、私も家庭の事情から藤橋の地を離れることになった。
 それでも、星を見るときには藤橋まで車を走らせる。会う人みんなに藤橋の夜空の美しさを語ることも続けている。
 東京で生まれ育った私だが、揖斐川上流の「星のふる里」は、いつしか第二の故郷となってしまったようだ。
 今は異動で天文台を離れているが、機会があればまた星空の下で仕事ができればと思っている。そして、揖斐川上流に広がる満天の星空を、もっともっと自慢したいと思うのだ。

2009年04月21日

●宇宙人って本当にいるの?

 映画やSF小説でおなじみの宇宙人。一昔前は、タコのお化けのような姿に描かれることが多かったのですが、最近は人間と同じような姿での登場が多いようです。
 そんな宇宙人が、空飛ぶ円盤に乗って地球をひそかに訪れていると言う人もいますが、宇宙人って本当にいるのでしょうか。

☆地球人も宇宙人
 宇宙人がいるかどうかという問いに対するひとつの答えとして、地球に人類が住んでいるという事実があげられます。
 広い宇宙の中で、地球はとりたてて特別な星ではありません。私たちの体や動物・植物をつくっている物質は、宇宙のどこにでもあるありふれたものばかりですし、地球にエネルギーを送ってくれている太陽にしても、宇宙のどこにでもあるごく普通の恒星です。
 ということは、宇宙のどこであっても地球と同じような生命は生まれることができますし、逆に地球だけに生き物が住んでいることの方がおかしなことだということができます。   
他の星で生まれた生命が高い文明をもつことも、地球でそれができたのですから不思議なことではありません。

☆宇宙人の住む星はたくさんある
 このような考え方から、ドレークという学者が、文明をもつ宇宙人が住む星がどのくらいあるのかを計算したことがあります。すると、地球が属している銀河系には100個の文明があるという結果になりました。

☆会うことはできない?
 じゃあ、空飛ぶ円盤に乗って宇宙人がやってくるという話はやっぱり本当なんだ、と思われるかもしれません。でも、銀河系に100個前後とされる文明同士の距離は、どんなロケットを使っても行き来することはできない遠さです。いかに科学が進歩してもそうした文明同士が握手することはできないのです。ただ、電波を使って通信することは可能です。実際に、宇宙人からの電波をとらえようとする試みが世界各地で行われています。

初出:広報ふじはし2001年1月号

●宇宙人って本当にいるの?

 映画やSF小説でおなじみの宇宙人。一昔前は、タコのお化けのような姿に描かれることが多かったのですが、最近は人間と同じような姿での登場が多いようです。
 そんな宇宙人が、空飛ぶ円盤に乗って地球をひそかに訪れていると言う人もいますが、宇宙人って本当にいるのでしょうか。

☆地球人も宇宙人
 宇宙人がいるかどうかという問いに対するひとつの答えとして、地球に人類が住んでいるという事実があげられます。
 広い宇宙の中で、地球はとりたてて特別な星ではありません。私たちの体や動物・植物をつくっている物質は、宇宙のどこにでもあるありふれたものばかりですし、地球にエネルギーを送ってくれている太陽にしても、宇宙のどこにでもあるごく普通の恒星です。
 ということは、宇宙のどこであっても地球と同じような生命は生まれることができますし、逆に地球だけに生き物が住んでいることの方がおかしなことだということができます。   
他の星で生まれた生命が高い文明をもつことも、地球でそれができたのですから不思議なことではありません。

☆宇宙人の住む星はたくさんある
 このような考え方から、ドレークという学者が、文明をもつ宇宙人が住む星がどのくらいあるのかを計算したことがあります。すると、地球が属している銀河系には100個の文明があるという結果になりました。

☆会うことはできない?
 じゃあ、空飛ぶ円盤に乗って宇宙人がやってくるという話はやっぱり本当なんだ、と思われるかもしれません。でも、銀河系に100個前後とされる文明同士の距離は、どんなロケットを使っても行き来することはできない遠さです。いかに科学が進歩してもそうした文明同士が握手することはできないのです。ただ、電波を使って通信することは可能です。実際に、宇宙人からの電波をとらえようとする試みが世界各地で行われています。

初出:広報ふじはし2001年1月号

2010年08月24日

●星空とともに

「星がきれいな所に住みたい」
 子供の頃から星を見ることが好きだった私は、ずっとそんな夢を抱いていました。
 夢をかなえて、生まれ育った東京から旧藤橋村(現揖斐川町)へ移住したのが17年前のことです。
旧藤橋村での仕事は、プラネタリウムと天文台の解説者。いよいよ天文熱に拍車がかかり、それ以来、星ひとすじの人生を過ごしています。

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 平成15年には小惑星に私の名前を命名していただくことができました。
 その後も星空への想いは募る一方で、晴れた晩には必ず夜空を見上げています。
 昨年7月には、46年ぶりに日本国内で見られる皆既日食を、小笠原沖まで船で遠征して観測してきました。快晴の空の下、真珠色に輝くコロナを見、本当に感激したものです。
 現在は、学芸員の資格を生かして文化財関係の仕事をしています。
 私の勤務する揖斐川町は、揖斐川上流の大自然に恵まれ、星空が大変に美しい場所。これからも満天の星空を見つめながら、自然と共に、自分らしく生きてゆきたいと思っています。

写真:愛用の望遠鏡と

☆平成22年5月発行の岐阜県地方公務員共済機関誌から依頼された原稿を転載しました。

2010年09月23日

●随筆「草食系天文家、不徳の一夜」

 自分で言うのもおかしいが、これまで発表した小説や随筆に性愛の要素はごく少ない。というより、ほぼそうしたシーンは出てこないと言って良い。
 清純なのである。現代風には草食系と言うべきか。
 その類の書籍や雑誌は読まぬし、動画系も見ない。まあ、性愛に関しては淡泊と言って良いと自分では思っている。
 そんな私だが、一度だけ、つまらぬ好奇心から旅先でその手のビデオを見たことがある。
 いや、正確には聴いたことがある、と言った方が良いかも知れない。
 あれはかれこれ20年以上前、四国は松山のビジネスホテルでのことであった。
 ホテルの夜は退屈である。酒でも呑むのなら夜の街に繰り出すところだが、あいにくと酒も飲まぬ。テレビも好きではない。自宅でもテレビを見るのは、朝のニュースぐらいである。
 ふと、テレビに備えてある番組表に目がとまった。パラパラとめくってみると、やはりその類のビデオプログラムがたくさん掲載されている。
 先述したとおり、私はその類の動画は見ない。まったく興味がないかといえば嘘になるが、そのためにカネと時間を費やそうという気は起こらない。
 しかるに、今は退屈だ。旅先で多少の開放感もある。
 番組表には、その類の番組を見るにはテレビに300円なりを投入せよと書かれている。
 今なら無料で見られることも多いのだが、昔の話だ。
 何事も経験であると考えた。退屈しのぎにはちょうど良いかも知れぬ。もちろん、いくばくかの興味もある。
 私は財布から300円を取り出し、テレビに投入した。
 平静を装いつつもドキドキワクワクしながらテレビの画面を見つめる。
 まず音声が聞こえてきた。あー、とか、うー、とか、いかにもそれらしき気配の声である。
 私は画面を注視した。番組のタイトルは、とてもここには書けない○○××のものである。
 今にものすごい映像が出るに違いない。全神経を画面に集中して映像が現れるのを待った。
 1分、2分・・・。
・・・おかしい。いつまで経っても映像が出てこない。
 どうやらこのテレビ、故障しているらしいのだ。
 叩いてみた。一瞬、画面が映るものの、すぐに消えてしまう。
 揺すってみた。やはり画面が映るのは一瞬だ。
 しばらくテレビを叩いたり揺すったりしていた私は、やがてテレビの裏に回り、憤然と配線の点検に取りかかった。きっと、どこかの接触が悪いのに違いない。大枚300円も投入しているのである。見られないまま諦める手はない。
 私は、あちこちの配線をいじくり回し、線を切ったり繋いだり、様々な試行錯誤を繰り返した。
 ときおり接触がうまくゆくと画面が映る。
 うむ、すごい映像が映っている。いいぞ、と思う間もなく画面は乱れ、何もわからなくなる。
 私は悪戦苦闘した。音声は流れ続け、それらしき気配は、いよいよ佳境を迎えているようである。が、依然として画面は乱れたままで何もわからぬ。
 お菓子を目の前に出されておあずけをされている子どもの如き心境で、私は汗まみれになってテレビの修理に没頭した。
 数回、感電し、数回、火花が散った。が、私は諦めず、なおも事態の打開を試みた。
 1時間ほどが過ぎた。
 突然、部屋に静寂が満ちた。
 時間切れであった。
 全身、汗にまみれ、あまつさえ指には感電による火傷を負った私は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 時計を見る。
 すでに夜中の0時を回っていた。
 精も根も尽き果てた私は、よろよろとベッドに横たわり、深い虚脱感を抱いて眠りに就いたのであった。
 それ以来、私は旅先でその類のビデオは一切、見ないことにしている。
 どうもあの夜は魔が差したとしか思われぬ。
 やはり私は草食系の清純天文家が相応しいようである。

☆東大和天文同好会の会誌「ほしぞら」1988年12月号に掲載したエッセイを、若干、加筆訂正したものです。
最近、星を見ていないので、とりあえず駄文ですが掲載してみようかと・・・。
誰ですか、「清純で草食系?ほんとかな?」なんて思っているヒトは・・・。
 


2010年12月05日

●随筆「鬱病徒然草」

10数年前、鬱病になったことがあります。田舎暮らしを始めて数年が過ぎた頃でした。
当時は現在ほど鬱病という病が世間に知られておらず、どうしてこんなに体調が悪いのだろうと思っていただけでしたが、今から振り返れば、当時の症状は完全に鬱病の典型的なものでした。
そんな鬱病の時期に、東大和天文同好会の会誌「ほしぞら」に書いた文章が出てきましたので掲載します。
面白おかしく書いてはいますが、これまでの人生で最も辛い時期でした。
鬱病になった原因はいくつかあります。
そのうち書くかもしれません。
とりあえず今回は当時のエッセイを・・・。

☆ ☆

 10月中旬から体調を崩し、以来、どうにもすっきりしないウツウツとした日々を送っている。頭が重く体がだるい。食事は摂れぬし、腹が痛く吐き気がする。最も不調だった頃には何やら目まいまでするようで、車を運転していてふっと意識が遠くなり、自分でもこれはかなり危ないな、と思ったほどである。誰であれ
人と話すのが面倒だし、人の集まる場所に出て行く気が起こらない。
 仕事には仕方なく出勤するものの、帰宅するとすぐに布団に潜ってしまう。夕食も猫ほども食べない。

 休日の私の生態は次のようなものである。
 朝、9時頃、布団から起きあがる。とはいえ、夜もほとんど眠れないので、心地よい目覚めとはとても言えぬ。
 起床すると、寝間着のまま、ふらふらとダイニングに行く。娘もカミさんもすでに食事が済んでいる。娘は保育園に行ってしまっていることもある。
 腹痛と吐き気を感じながら、パンと紅茶だけの朝食を済ます。
 午前中は新聞を読みながらボーッとして過ごす。金魚に餌をやっていないことに気づいて餌をやる。鉢植えの草木に水をかける。
 昼食は食べないことも多い。
 カミさんは家事にいそしみ、近所の奥さんとおしゃべりなどしている。元気である。もちろん、食事も私よりずっとたくさん食べる。
 午後も何をするでもなく過ごし、15時頃からは部屋を暗くして布団に入ってしまう。音楽を聴きながら、覚めているとも眠っているともつかない時間を過ごす。この時間を私は「瞑想」と呼んでいるが、傍目から見れば寝たきり老人そのものである。
 娘が夕食を告げに来る。形ばかりの夕食を摂り、のろのろと風呂に入り、また21時頃には寝てしまう。
 こう書いてみるとひどい生活だ。一日の大半を寝て過ごしているために、一日中、寝間着のままである。

 平日、つまり出勤日はもっと悲惨である。
 生来生真面目な性質なので(本当?)朝起きてどんなに体調が悪くても休みはしない。
 朝食もほとんど食べず吐き気と腹痛を堪えながら出勤する。
 役場からプラネタリウムまでは、同僚や受付のおばちゃんたちと車に相乗りして行く。ずっと吐き気がするのでできるだけ自分でハンドルを握る。カーブの多い道なので、車酔いまで加わらないようにである。
 プラネタリウムの投影が辛い。30分間、生解説を行うのであるが、吐き気と頭痛、腹痛、だるさを堪えながら、お客さんには悟られないよう、通常と変わらない軽快な解説を行う。ここはプロの意地である。体調が悪いからと言って、解説に乱れがあっては絶対にいけない。たった30分間の生解説が非常に苦痛で長く感じる。
 夜の観望会も同様だ。観望会は、望遠鏡のセッティングから始まって何かとせわしなく忙しい。孤独に喋っているプラネタリウムの解説と違って、たくさんのお客さんを相手に天体望遠鏡を覗かせ、見えている天体の解説をしなければならない。
 当時は出張観望会も頻繁であった。車に望遠鏡を積みこみ、お客さんの待つ場所まで出前をするわけだが、天文台で行う観望会に加え、車への望遠鏡の積み込み、出前先までの運転、帰ってからの望遠鏡の積みおろしという作業が加わる。消耗しきった肉体と精神は限界に達する。
 やっと帰宅すれば、夕食を食べる気力もない。そのまま布団を延べて重苦しい眠りにつく。精神的にも肉体的にもあまりに苦しく、仕事を辞めて東京へ帰ろうかと思いつめることもある。
 とはいえ、観測を休んでいるのかといえばそうではない。晴れた晩には必ず観測を行っている。それだけ天文に熱心なのだ、などと言うつもりはないが、満天の星空は、疲れ切った体と心にとって唯一の救いだからこそ、辛さを押して観測は続けている。

 ともあれ鬱病である。今も布団にくるまってこの原稿を書いている。
 日本流星研究会のH君からは今日、私の近況を気遣う手紙が届いた。N氏から痴呆老人化している私の状況を聞いたという。
 akapi氏は天文同好会のメーリングリスト上で昔語りなどしてくれ、それを見ていると多少なりとも昔日の元気が甦ってくるような気がしてくる。他のメンバーも、それぞれML上で私の近況を気遣ってくれ、ありがたいことである。
 近所の奥さんからは、私の病状を見かねたのだろう、「朝鮮人参の蜂蜜漬け」をいただいた。これもありがたいことである。
何事にも感謝の心を感じさせてくれる、思えばこの鬱病も有り難い病なのかも知れぬ。

初出:東大和天文同好会会誌「ほしぞら」144号(1998年1月発刊)に加筆・訂正